「いつかこの場所でも大地震が…」地震に脅かされた1年を振り返る 宮崎県内では108回以上の地震が発生「南海トラフ地震臨時情報」初発表で防災意識が高まった年だった
2024年は、全国各地で地震が相次いだ年となった。元日に発生した能登半島地震への支援が広がる中、「いつか宮崎でも大きな地震が起こる」という懸念も現実となり、8月には日向灘でマグニチュード7.1の地震が発生。「南海トラフ地震臨時情報」が初めて発表された。地震の脅威を体感し、防災意識が高まった1年を振り返る。 【画像】震度6弱を観測した日南市の酒店では、揺れによって棚の酒類が落下し、床に散乱。
生きているだけで良かった
2024年元日・午後4時10分。新しい年が始まったのもつかの間、文字通りの「激震」に見舞われて、お祝いムードは一転した。能登半島地震はマグニチュード7.6、最大震度7を観測し、甚大な被害をもたらした。 石川・珠洲市出身で、地震発生時は宮崎にいたため地震を免れた男性がいる。浦野博充さんと宮崎市出身の綾菜さん家族。普段は珠洲市で暮らしていて、博充さんは両親と農園を経営。積雪で農業ができない12月~2月の間だけ妻・綾菜さんの実家に移動する二拠点生活をしていた。 石川県珠洲市出身 浦野博充さん: テレビで自分の知っている町が崩れる瞬間は、僕も妻も言葉にならない感じだった。本当に生きていてくれてよかったと思うし、生きているだけでいいよと思う。 浦野さんは2月、ふるさとの被害を確認するため珠洲市へと向かった。目に飛び込んできたのは、変わり果てたふるさとの姿だった。両親と家族で暮らす自宅も全壊という判定を受けた。 浦野さんは、宮崎市近郊の綾町の農園の一部を借りてブドウの栽培を始めた。珠洲市の両親は避難所から仮設住宅に移り、地震の影響が少なかった畑で農業を再開したという。しかし、「復興」と言うにはまだ遠い状況だ。 能登半島地震による石川県内の死者は、「直接死」が228人。避難生活による身体的な負担などが原因で亡くなった「災害関連死」の数は、2016年の熊本地震を上回る241人に上っている(12月10日時点)。
宮崎県内からも支援の動き
発災直後の1月3日、延岡市は、地震により上水道が断水し、飲料水が不足している石川・かほく市に飲料水を送った。延岡市が災害用に備蓄していたペットボトルの飲料水2リットル1500本を提供した。延岡市の読谷山洋司市長は、「避難されている方の健康状態を少しでも維持するためにも、私たちとしてもできる限りの対応をしなければならないと考えた。」と話した。 地震から2週間後には、石川県からの要請を受けて、災害派遣医療チームDMATが派遣された。県立延岡病院からは、医師や看護師など合わせて6人が石川県へ。6人は石川・穴水町を拠点に被災者の医療支援を行った。 支援の動きは中学生からも。宮崎・小林市では、地元の中学生が発起人となり、子供たちが義援金を出しあう「おこづかい募金」を行った。細野中学校の3年生、藤田智広さんと林優大さんの提案をきっかけに、小林市内の小中学校21校に広がった。 2人は前の年の8月、姉妹都市である石川県能登町の中学生16人と小林市で交流していた。能登半島地震を目にして、「友だちの力になりたい」と考えたという。 細野中学校3年 林 優大さん: 交流会で触れ合った仲間も同じ中学3年生だから、受験は夢への大きな一歩だから、少しでも夢への一歩につながってくれたらと思って始めた。 細野中学校3年 藤田 智広さん: 額が大きくても小さくても、協力してくれる気持ちが大切なので、ぜひどんどん募金してほしい。