「ものすごい誹謗中傷だった」リポーター・阿部祐二、台風やらせ疑惑の裏側と天職の原点
相撲部屋からスカウトも 一番にこだわったスポーツ少年
1958年、東京都板橋区で阿部は生を享けた。家族は父、母、そして2歳上の兄。父はタクシー運転手で、彫りの深い顔立ちは母譲り。子ども時代の阿部はスポーツ少年。マラソン大会で誰にも負けないよう、練習で朝5時から走っていた。しかも、ただの1位では満足しない。2位を1周遅れにして勝たないと気がすまなかったというから、筋金入りの負けず嫌いだ。 「大会で1周目から猛ダッシュしてると、コースの内側で“おまえ、何やってるんだ”“最後まで持たないぞ”って先生が怒ってるのが聞こえるの。でもそうしないと1周遅れにできないからさ。そのために必死で練習してた。親父は喜んでたね。親父が自慢できるのは子どもの運動会のときだけだったから」 小学校時代は相撲と野球に没頭。相撲では夏休みに父の地元、山形県酒田市の大会で4連覇する。 「今年7月末に酒田で水害が起こったとき、リポートで現地に行ったら、運転手の方が俺を知ってたんだよね。『小学校のとき毎年、日和山公園に来てたでしょ』って。“東京から来て優勝をかっさらっていってた子が、あの阿部っていうリポーターだよ”って噂になっていたみたい(笑)」 最初は「好きだから自分でやってみた」という相撲。その後、東京・練馬にあった“豆相撲団”に通うようになり、相撲部屋からスカウトされるほどに。体形はそのころから細身。骨が太く長身の“ソップ型”だった。 「当時は握力がやたらと強くて、まわしを引く力がすごかったんだよ。それで評価された」 だが相撲の道には進まず、野球も私立の中学からスカウトが来たが、「自宅の玄関から(区立の)中学の校門まで30秒なのに、なんで私立に行かなきゃいけないんだという話になって」、相撲と野球は小学校までで終了となった。 スポーツ一色の子ども時代。テレビとは、どんな関係だったのだろう? 「コント55号の公開生放送にハガキで申し込んで見に行ったりしたくらいかな。ほとんど見なかった。アニメも『巨人の星』くらい。兄貴が『ゲゲゲの鬼太郎』が好きで、覚えてるのはその2つだけですね。今クイズ番組に出演してアニメの問題が出ると、まったくわからなくて」 女性アイドルに夢中になることも一切なかったという、硬派一直線な阿部少年であった。