【中村憲剛×上野由岐子対談 前編】サッカーとソフトボールのレジェンドふたりが共感し合う、長くトップでやり続けるために必要なこと
中村憲剛さんの対談連載、13人目となった今回のゲストはソフトボール界のスーパースター上野由岐子投手。日本代表を牽引して2008年北京オリンピック、21年の東京オリンピックと2度の金メダルに輝き、特に北京での熱闘は「上野の413球」として今なお語り継がれています。42歳になった現在もビックカメラ高崎ビークイーンに所属し、変わらず第一線で活躍。その上野さんから「憲剛さんと話をしてみたい」との逆オファーを受けて実現した「思考のパス交換」ならぬ「思考のキャッチボール」。いよいよプレーボールです。 【画像】超貴重! キャッチャーをする中村憲剛
世界一になるには世界で一番練習をしなきゃいけないとしか考えていなかった
中村憲剛(以下、中村) まさか上野さんとこうやって話ができる機会がやって来るとは夢にも思わなかったです。年齢が近いのは知っていました。 北京オリンピックの413球の力投を「上野、すごい!」と観ていましたし、39歳になって再び東京オリンピックで金メダルを獲得して、また違う意味ですごいと思いました。 年齢が上がることで(パフォーマンスにおいて)難しくなるのは、40歳までサッカーを続けた僕もわかっているつもりなので。二重、三重のリスペクトをもって、きょうお会いしています。 上野由岐子(以下、上野) ありがとうございます(笑)。私、サッカーのこと全然わからないんですけど、憲剛さんが指導されているYouTubeの動画や、この「思考のパス交換」などを読んで見て、人柄もすごく伝わってきて、いつか話をしてみたいなってずっと思っていたんです。 中村 こちらこそ、ありがとうございます(笑)。上野さんは40歳を過ぎても変わらず進化していることがすごい。 上野 (心掛けているのは)いろんな情報を一度自分のなかに入れて、どのように化学変化させていくか、なんです。プラスになるかもしれないし、逆にマイナスになるかもしれない。 でも一度自分のなかに入れてそこから自分で判断していて、いい意味で進化につながるようにしていけたらいいかって考えながらやっています。 中村 そのようなマインドになったのはいつ頃からですか? 上野 若いころはとにかく“オリンピックで金メダルを獲りたい”が一番でした。世界一になるには世界で一番練習をしなきゃいけないって、それしか考えていなかったです。 2008年の北京オリンピックが終わって、燃え尽き症候群みたいになってモチベーションがどうしても上がらないっていう時期がありました。それを乗り越えたからこそ、こういうマインドになったという感じですね。 中村 今の話、すごく共感できます。僕の場合は30歳を過ぎてから、変えていいものと変えてはいけないものを自分のなかで試したり、受け入れたりしながら自分の身になるものを残していきました。その自分のやり方は合っていたんだなと、上野さんを通して答え合わせしている感覚です。 上野 どうして40歳で現役引退と決めていたんですか? 中村 サッカーという競技自体、長く(第一線で)やれるスポーツじゃないということがまず一つあります。先輩たちを見てきたなかで、30歳を過ぎたときに35歳までやれたら万々歳だろうって思っていたんです。 川崎フロンターレでずっとやっていくなかで、34歳のときにまだ右肩上がりでいる自分がいて、ここで終わるのは違うなと感じました。35歳のとき40歳までいければそれこそ万々歳×2だろうと(笑)。その終わりを決めてからJリーグのMVPをいただいたり、J1初制覇(17年、18年に2連覇)があったり、5年間でいろいろなものを獲得することができました。 2019年には39歳になる5日前にYBCルヴァンカップも初めて優勝できて。来年(40歳で)引退すると決めたものの、これどうやって終わるのかって妻とも話をしていたときに……。 上野 左膝のケガがあった、と。 中村 そうなんです。39歳になった最初の試合で左膝前十字靭帯損傷という大ケガをしてしまって。確か妻とそういう話をした翌々日だったんですよね。(ケガは)全治7、8カ月。しっかり治して復帰して、残りのシーズンをやり切ったら40歳で辞められるなって。 上野 モチベーションって常に高いわけではないと思うんです。私のなかではちょっと下がるときにケガを呼んでいるイメージがあって、憲剛さんの「どうやって終わるのか」と思っていたときにケガをしたという話は、何だか同じだなって思いました。