他に選択肢がないから、副将とバックスリーダーに就任 「柄じゃない」けど、後輩たちと両親のため、もう逃げない
立場は人を変える。 彼は、変わった。 東京都立大学ラグビー部の伴場大晟(4年、磐城)は今年、最上級生になって副キャプテンとバックスリーダーを任された。 【写真】集合写真に収まる4年生たちは、マネージャーを含めてもわずか7人だ 昨年までの3年間、レギュラーになれたことはない。公式戦に出場できたのも、数えるほど。勉強との兼ね合いで部を離れた時期もある。 それでも、副キャプテンとバックスリーダーになった。 なぜか。 申し訳ないけれど、ほかに選択肢がなかったからだ。 同期の選手は伴場を含めて、たった4人。バックスに限れば伴場たった一人だった。 そういう事情で、彼は大役を任されることになった。 「僕がやるしかないんだろうなって、昨年あたりから、薄々、感じてはいました。ただ、僕、ずっと、そういう役割から逃げてきたんです。柄じゃないし、そういう責任、背負いたくないし……。でも、僕しか選択肢がないんだから、しょうがないですよね」
人生が変わった日
福島県浪江町に生まれた。2011年3月11日、東日本大震災に襲われて、福島第一原発の事故が起きて、町ごと避難を強いられた、あの町だ。 伴場は小学3年生だった。 家族そろって、青森などを転々とした。 「スポーツ、やりたかったんです。野球とか。だけど、転校、転校で、無理でした」 中学生になる頃、福島に戻ることができた。いわき市に両親が家を建ててくれた。磐城高に入学して、友達に誘われるがまま、ラグビー部に入った。 ラグビーなら経験者も少なそうだし、何とかなるだろう。そんな、軽い気持ちだった。 当時、体重45kg。体格が物を言うフォワード(FW)をこなすのは無理だった。ほかに選択肢がなくて、バックスになった。小柄で細身。なかなかパスもキックも上達しなかったけれど、タックルだけは、なぜか性に合っている気がした。何度、吹っ飛ばされても、「次こそ!」って向かっていけた。 「お前、根性あるな」。そうやって顧問の先生がほめてくれたことは、いまも覚えている。 姉が2人。3人姉弟の末っ子。両親の苦労は肌身で知っている。これ以上、負担をかけたくはなかったけれど、どうしても、東京の大学に進みたかった。いろんな大学の学費を調べて、都立大に進路を決めた。 1年生、2年生の時は、ただ、経験豊富な上級生についていけばよかった。3年生になると、コロナ禍の深い爪痕のせいで部員数も戦力もガクンと落ちた。それでも伴場の出場機会は少なかった。「その程度」、の選手だった。 それが、今年。副キャプテンとバックスリーダーにならざるを得なくなった。 なったからって、いきなりスキルが向上するはずもない。 だから、どんな時も、タックルだけは、あきらめず、やりきろうと決めた。高校時代、先生がほめてくれたタックルだから。何度、吹っ飛ばされても。 そして、リーダーシップなるものと真っ正面から向き合おうと決めた。 それまで逃げてきた、リーダーシップなるものに。 「せっかく入部してくれた1年生、2年生には、余計なことを考えず、プレーに集中してほしい。そういう環境をつくろうと思ったら、僕が声を出して、みんなを引っ張るしかないんですよね。4年生のバックス、一人しか、いないんだから。できることなら、逃げたいですけど。決して、柄じゃないですけど」 その場の空気をピリッと引き締められるような格好いい一言なんて、発することはできない。歴代のリーダーと比べれば、器じゃないのはわかっている。それなら、自分なりに後輩たちを引っ張れる、自分なりのリーダーシップなるものを、探し当てなきゃならない。 探し当てるため、考えた。いまの自分に、できること。何度、吹っ飛ばされても、タックルすることだ。そうだ。何度、失敗しても、前向きに、明るく、後輩たちを元気づけることだ。何があっても、ポジティブに。 そう、決めた。