【皇室コラム】「その時そこにエピソードが」第25回 <関東大震災とベルギーから贈られた絵画と中禅寺湖畔の別荘>
■ベルギーで図書館の焼け跡を訪ねた昭和天皇
なぜベルギーの画家たちは絵画で日本を支援しようとしたのでしょうか。〝時代の空気〟がうかがえる記事がありました。 「心を打たれるのは、第四室にあるアルフレッドカーアン氏作の『殉難の白耳義』である。崩れ落ちた都を背景に涙にぬれ、ぼんやりとあらぬ方を見つめている喪服の女を描いてあるもので、欧州戦乱当時の悲惨がマザマザと思い浮べられ、我が震災に同情を寄せた気持がよくわかる」(1924年11月15日、読売新聞) 「欧州戦乱」とは、第一次世界大戦のことです。ベルギーは永世中立国でしたが、ドイツが侵入して激しい戦闘が行われ、多くの市民が犠牲になりました。「勇敢なる小白耳義」「白耳義国民はいかに困苦しつつあるか」……。東京朝日新聞は戦況を連日のように伝えています。 驚くのは1915(大正4)年2月3日の記事です。朝日の村山龍平社長が、ベルギー国民を励まそうと愛蔵の日本刀を特派員からアルベール1世国王に届けさせ、紙面で「白帝へ太刀捧呈」「白国皇帝謁見」と伝えています。 『朝日新聞社史(大正・昭和戦前編)』を見ると、「太刀献上」の詳しい経緯や、「社告」で「白国同情義金募集」を呼びかけたことが書かれています。「朝日関係」で計2400円を〝率先拠出〟し、財界の大口寄付もあって2万8800余円をベルギー公使館に贈っています。ベルギーへの支援が、第一次世界大戦の時に民間レベルで行われていたのです。
終戦から2年半後の1921(大正10)年6月、皇太子時代の昭和天皇はヨーロッパを訪問します。軍艦「香取」で往復した半年間の旅です。この時、昭和天皇はイギリスやフランスに続いてベルギーにも5日間滞在し、イープルなど大戦の戦跡を訪ねました。 イープルは戦争で初めて毒ガスが使われ、『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、イギリスの派遣軍を含む連合軍約30万人が戦死した地です。それはイギリス訪問の折、ジョージ5世国王から「英軍の奮戦の跡をぜひ見てほしい」と勧められた視察でした。 「陛下ノ予ニ告ゲ給ヒシ如ク、『イープル戦場の流血凄惨』ノ語ヲ痛切ニ想起セシメ、予ヲシテ感激・敬虔ノ念、無量ナラシム」。昭和天皇は現地を視察してジョージ5世に電報を送っています。 さらに、オランダを訪問した後にもベルギーに寄り、ルーヴェンという都市を訪ねています。伝統あるルーヴェン大学は大戦でドイツ軍に図書館を焼かれ、古文書を含む貴重な蔵書30万冊を失いました。昭和天皇はその焼け跡に立ち、無言で説明を聞きました。 『皇太子殿下御外遊記』(二荒芳徳、沢田節蔵著、大阪毎日新聞社・東京日日新聞社刊)にその様子が記されています。 「この焼け跡に集まった幾多の群衆、ことにその中の学生は、実に熱狂的で、悲痛にも見えるほどの歓呼を殿下に対して集中した。彼等はよく殿下のご来訪が普通のご見学でなく、実に文化破壊の横暴に対するご弔問の義であるという事を知っていたからである」 2年後の1923(大正12)年4月。バッソンピエール大使の提案でベルギーから経済使節団が来日します。日本はベルギーからガラス薄板や鉄などを輸入していましたが、大戦で落ち込んでしまったからです。主要な商工業会社の経営陣からなる使節団は、新1万円札の肖像となる渋沢栄一ら実業家たちと交流を深めました。 バッソンピエール大使の『回想録』には、その時の渋沢の様子が記されています。当時80代の渋沢は若き日、徳川慶喜の弟の昭武(あきたけ)に随行して渡欧した際にベルギーでレオポルド2世国王に謁見し、「日本が強国になるためには工業化を進め、製鉄を盛んにしなければならぬ」と言われ、数々の産業を興す道に入った思い出を語ったそうです。