30年間「衰退の一途」だった日本企業…令和が「絶滅期か、再生期か」の分岐点となるワケ【経営学者が解説】
平成時代の30年間、なぜ日本企業や日本社会は、昭和時代のような力強さを再現することができなかったのか。なぜ、右肩下がりの下降線を辿らざるを得なかったのか。平成時代は起伏の激しい長い過渡期。その最中に探したとしても解を見つけることはできず、解を得るには、令和を待たなければなりませんでした。次の打ち手を考え出すためには、何が何に変わって、どうなったのかという事実を知ることが必要です。岩﨑尚人氏の著書『日本企業は老いたのか』(日本能率協会マネジメントセンター)より一部を抜粋し、見ていきましょう。
平成の30年間を通じて、日本企業は確実に弱体化
~終身雇用、年功序列、企業内組合…かつては「三種の神器」に守られていたが 平成時代はわずか4年あまりの短い好景気と、20年を超える長い不況の2つのフェーズに跨ぐ時代であり、この間に日本企業・日本経済は著しくパワーダウンした。併せて、かつて衆目を集めた「日本的経営」という経営システムの価値や矜恃も失墜して、それは大きく変化した。 本稿では、日本的経営の功罪が日本企業ないしは日本経済の低迷に、どのようにして影響を及ぼしてきたのかについて考えていくことにしよう。
日本的経営のライフサイクル
~平成時代は日本的経営の「衰退期」 日本的経営のライフサイクルを考えると、(1)高度経済成長期に至る日本的経営の「形成期」、(2)安定経済成長期の「確立期」、(3)バブル経済時代の「安定期」、(4)平成不況期の「衰退期」、そして(5)令和の「絶滅期」あるいは「再生期」となる【図表】。 日本的経営の「衰退期」に当たる平成時代、企業行動を支配してきたロジックの核心は、過去の否定と過去との決別であった。同時代、わが国企業の多くは、従前から得手だった連続性のある「改善(カイゼン)」を放棄して、不得手な不連続の「革新(イノベーション)」に重心をおこうとしてきた。そのため、この時代のリーダーシップはかつて一世を風靡した日本的経営の制度的デメリットを強調し、異なるシステムをいかに構築するかに焦点をあててきた。 確かに、チャレンジングなトップマネジメントやエグゼクティブ、ミドルマネジメントの姿は、いかにも威勢がよく、頼もしく、その試みが正しい選択であるかに映るだろう。とはいえ、革新や変革を無手勝流で進めることは危険である。目標やビジョン達成のために無理をすれば、途中で挫折するか、生き長らえたまま朽ちるか、いずれにしても将来に禍根を残すことになりかねない。そういったチャレンジも、成功すれば喝采ものである。 スタートアップ企業のように既存のビジネスが存在せずゼロからスタートするのであれば、攻めの一手で進んでも流す血は少ないかもしれない。犠牲にするものが少ない分、身軽で成功する確率も上がるに違いない。ところが、現存している組織や企業は既に現業で糧を得ており、ゼロからスタートする企業が掲げるようなロジックや方法、気合いや情熱だけで革新に挑戦するわけにはいかないことはいうまでもない。 経営環境の変化に合わせて事業構造(ビジネスデザイン)を革新していくことは、いかなる企業にとっても重要なことかもしれない。そのため、できるだけ迅速に新規事業や斬新なビジネスデザインを創出することが求められる。いかなる企業もライフサイクルの呪縛から逃れることはできないから、挑戦することは不可避である。とはいっても、インプットに回す経営資源を保有していなければ、革新や変革、挑戦もあったものではない。すべてかけてチャレンジできるのは、スタートアップ企業の特権である。失うべきものが少ないということは、スタートアップ企業の最大の強みといってもよいかもしれない。 その上、現状で事業を展開している企業の場合、ビジネスデザインの革新にチャレンジすると同時に、既存の組織管理構造(マネジメントデザイン)の変革に取り組むことも求められる(*1)。ところがマネジメントデザインの変革には、殊の外、慎重さが必要である。マネジメントデザインには不可視な部分が多く、複雑な上に連続性をもったシステムである。その上、アルゴリズムだけでは動かない感情をもった人間が構成していることも考慮しなければならない(*2)。 ~「唐突な環境変化」を組織管理体制の打破だけで乗り切ろうとした、平成の初動ミス 振り返ると、日本的経営が「安定期」を経てバブル経済崩壊に至るまでの間、日本企業の事業展開と「三種の神器」に守られた経営とは、実にうまくフィットして効果的に機能していた。ビジネスデザインとマネジメントデザインが見事に適合していたのである。 ところが、長期景気低迷で生業が不調になると同時に、グローバル化と技術革新が急速に進み、それらが複雑に絡み合って企業を巡る経営環境と企業活動との間に大きなギャップが生じたのである。そのギャップに対処するために、企業はすぐさま事業革新や経営変革に取り組もうとした。ところが、日本企業にとってバブル経済崩壊はあまりにも唐突かつ突然のことであったために、精度の高い設計図がない中で明確なプランを策定する間もなく、それまでの50年間に刷り込まれてきた組織管理体制を打破することを試みたのであった。一方で、その時点で事業構造に手がつけられることはほとんどなかった。 企業経営にとって時宜に応じて対症療法を施すことは必要不可欠である。しかし大きな変化を乗り越える場合には、先ずビジネスデザインの革新を進めて、それに見合った形にマネジメントデザインを変革していくのが道理である。ところが、同時代の日本企業の多くは、マネジメントデザインの変革だけで環境変化を乗り切ろうとしたのである。それこそが、平成の初動ミスであった。