【追悼】渡辺恒雄さん 妻への愛と後悔を語った手記「クモ膜下出血に襲われたあの日から…篤子よ、私はいまも罪の意識にさいなまれている」
◆原因は自分にあった さて、はじめに、私がいまだに「老妻に対する罪の意識にさいなまれる」と書いた、その理由はこうだ。 後日検証してみると、妻の発病は、深夜12時から1時頃と思われる。妻はトイレで発作に見まわれ、柱にぶつけて倒れ額に6針縫う外傷を負い、血を流しながら自力でリビング・ルームに辿りつき、私の常用するリクライニング・チェアに倒れこみ、そのまま意識を失った。 問題は、自宅に彼女の他に私ひとりしか居住していなかった中で、私がその事態を朝の9時まで気づけず妻を居間に放置していたことだ。もし、発作直後に気がついて、救急で入院させ、直ちに手術していれば、後遺症で多少身体の不自由は残っても、通常に近い意識は残ったはずだ。そうしたら、いまの認知症状態には至らず妻は私ともっと日常会話をかわすことができ、それによりいささかでも彼女の人格の尊厳と、生きがいを維持できていたと確信する。 同室で寝ていた2人を、2部屋に別居するよう求めたのは私であった。その理由は、2人とも不眠症の傾向があり、深夜、寝る前に長時間読書をする。妻は、『赤毛のアン』の如き古典小説を、私は政治・経済書等を読む。問題は、そのランプをつけて読んでいる時間に大きな差があったことだ。同時にランプを消すということはない。となると、同室に寝るということは、光の確保と消灯という点で、両立不可能となる。そこで私が提案して、寝室を分離してしまったのだ。そのことが結果として、脳出血発作後、彼女を長時間放置して、認知症を悪化させ、不自由の身にしてしまったのである。それがいまでも消すことの出来ない、妻に対する私の罪の意識の理由、原因である。 これ以上、悲しくてつらい思い出を書き残すのは無用である。そこで楽しかった新婚の思い出を書きとめておこう。
◆28人目のプロポーズ それは、私が28歳の頃だったと思う。編集局で仲間と雑談をしていたとき、ひとりの後輩が、新聞の映画広告にのったある外国人女優を指さし、この女優にそっくりな女性を知っている。もし先輩が興味があるなら、いつでも紹介しますといったようなことを言った。 私にとって、その広告写真はきわめて美人に思えたので、即時紹介を頼むと言った。当時、政局もひまだったので、大森方面の居酒屋の2階でその後輩立会いのもとデートした。もとよりその女性は、新聞にのっている洋画の女優とは似ても似つかなかったが、小生には、それまでにつきあった中ではもっとも美人の方ではあった。 1回目に会ったとき、再会を約した以外に何を話したかはおぼえていない。2回目に会ったときのことはおぼえている。 「僕はこれまで、27人の女性にプロポーズした。君は僕にとって28人目にプロポーズした女性になる。ということは、君はこれまでの28人の女性の中で最も美しく素晴らしいということになる」 あとで考えてみると、こんな不合理でいい加減な理屈はないのだが、私のそのときの表情がホンモノに思えたから、彼女は納得し、OKしたのではないか、と思っている。 というわけで結婚に至るわけだが、彼女はそのとき、ほとんど職を失っていたことも、OKの理由だったかもしれない。 彼女は終戦直後、共産党系の新劇として有名だった「新協劇団」に入っていたが、十分な報酬は入らなかったに違いない。そこで、東宝の映画女優のオーディションを受けて大部屋女優になったが、結核を病み吐血し、女優を断念し、治療しながらある著名な写真家の商業写真のモデルをしていた。上の写真は、電気洗濯機か何かの宣伝写真だったと思う。
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