東洋史と西洋史の「達人」が語る――歴史を学び直して最後に見えてくるもの
読書の秋――だが、各地で戦争は絶えず、一見平和な国も内側に分断や対立を抱えている。激動の現代世界を理解するには、背景の歴史を知る必要がある。世界史の意義や適切な学び直し方について、アジア史の岡本隆司・早稲田大教授と、西洋史の君塚直隆・関東学院大教授という碩学2人が語り合った。 (『中央公論』2024年11月号より抜粋)
岡本》歴史を学び直すという企画は世に少なくありませんが、どうも両極端が多いように思います。両極の一方は、個別の人物への興味を入り口とするパターンです。しかしその形式だと話が細かくなり過ぎる嫌いがありますし、そもそも名前を聞いてもピンとこない人だとどうしようもない。ですから、大摑みに歴史の背景が見易い形でプレゼンしたのが、我々の番組でした。 学び直しをする場合、大きな流れを摑むとともに、具体的にどんな人が何をしたかを知ることが車の両輪のように必要です。人がいないと歴史は成り立ちませんが、同時に人は社会や時代の中で生きる存在でもあるわけですから。 君塚》個別の人物と、その人物が生きた社会の両方を知ることで補完し合うのだと思います。私が中公新書で出した『ヴィクトリア女王』や『エリザベス女王』は、視点人物をまず据えて、そこから時代や社会を描く手法を取りました。イギリスはたいへん伝記好きの国で、王や貴族やお金持ちについては公式の伝記作家によるバイオグラフィーが残され、それを基にまた違う伝記が書かれたりします。ですから私も、自分なりの持ち味を出すことに主眼を置きましたね。 『ヴィクトリア女王』の場合は、「大英帝国の”戦う女王”」という副題の通り、外国をはじめ、さまざまなことと常に戦い続けた女王として、その時代をまとめました。『エリザベス女王』も副題の「史上最長・最強のイギリス君主」という軸で、彼女のすぐれた知性や、その行動を通じて見える現代イギリス史を書きました。 岡本》君塚さんは、両輪を補完し合う形を実践なさっていますよね。たとえば約500年を概観した『ヨーロッパ近代史』(ちくま新書)では、章ごとに一人の人物を取り上げ、前章の主人公の没年と次章の主人公の生年がほぼ重なるように繫いでいく形式です。 君塚》教えるときも、その方が学生はとっつき易いように感じています。個別の事件を取り上げて大摑みに説明しても、覚えるのが大変という意見が出て、苦手意識が生まれてしまいがちです。ところが一人の人物を主人公として、その人がその時代のどういう状況に直面し、打開あるいは挫折したかという具合に説明していくと、割と話を聞いてくれて、理解してもらえるのです。 岡本》君塚さんは、とてもイギリス的です。私はどちらかというと、マルク・ブロック(20世紀前半の仏歴史家。事件史を中心とする伝統的歴史学に対して、社会史など学際的アプローチを重視する「アナール学派」の代表的存在となった)の方なんで。 君塚》岡本さんが昨年、中公新書で出された『物語 江南の歴史』の書き方はたしかにブロック的です。そしてフェルナン・ブローデル(アナール学派の仏歴史家)の『地中海』の江南版でもあります。 岡本》中国史は人物ばかりになりがちなので、その反動です。イギリスは史料の残し方も使い方もシステマチックで、史料批判も含めて史料をきちんと使える方法論が成り立っていますが、それは中国史では夢のまた夢です。中国では自分の死後、歴史にどう書かれるかをすごく意識しますので、自分できれいに改竄(かいざん)した史料しか残さない。それに基づいて人物を描こうとすると、足をすくわれることになります。だから私は人物そのものよりも、人物を通じて社会を描く方向に徹していますね。 我々が習う歴史学はヨーロッパの歴史学です。ただヨーロッパと言っても、大陸とイギリスとで、きれいにとまでは言いませんが、かなりアプローチが異なります。ではどちらが中国史や東洋史を研究する上で有効かと考えると、まずはブロック、ブローデルであり、アナール学派かなと。もっともヨーロッパと違い、中国史では史料がついてこないのがとても難しい。その点を何とかできるような形を考えながら書いているのが現状です。 君塚》フランスは哲学的思考を生み出す力が強い国で、それゆえアナールのような発想が生まれます。イギリスにはない発想です。ただ、アナールのアラン・コルバンらが提起している『感情の歴史』(藤原書店)などは、いろいろと試行錯誤しているところがフランスらしいのかもしれませんが、研究としてどこまでまとめられるのかと疑問に思う側面もあります。 岡本》歴史学にも方向性があり、対象や時代によってケースバイケースで、どのアプローチを取るのがいいかという問題があります。 君塚》それぞれに持ち味がありますからね。そしてその中には、いいものも悪いものもある。我々はそれを見極めていく必要があります。 岡本》流行り廃りもあって、アナールが流行った時期もあれば、違う手法が席巻することもあります。歴史業界に身を置く我々はそうした流行り廃りに敏感な反面、学生や一般読者がそうした歴史学の流行り廃りをどこまで認識し、歴史に対してどんな考え方を抱いているかについては鈍かったりします。昔はそれこそマルクス主義の歴史学が上から下まで風靡(ふうび)していましたので、それに基づく見方を大半の人が受け入れていたと言えるでしょう。けれどもそれ以降のアナールや社会史、あるいは世界システム論などについては、どこまで一般受けしているのか、よくわかりません。 君塚》マルクス史観は浸透していたところがありましたが、一般にということであれば、他のものはそこまでではないでしょうね。