笹生優花の原点は「なんで、できない?」 “一日500球”のジュニア時代
2024年6月の「全米女子オープン」で大会2勝目を挙げた笹生優花。日本人選手として初めてメジャー複数回優勝は、初制覇から3年後の快挙だった。今季の米女子ツアーで平均飛距離267.90ydを記録するなどデビュー当時からそのパワーが注目されたが、ビギナーの頃はドライバーで「70ydぐらいしか飛ばなかった」と明かす。10月にジュニアクリニックの主催も務めた23歳が、自身の幼少期を振り返り、発展途上のスイングについて語った。 【動画】笹生優花のジュニアイベントに密着 ◇◇◇
■100yd飛べばハッピーだった
母・フリッツィさんの故郷、フィリピンで生まれた笹生は4歳で日本に移住し、ゴルフを始めた。シングルハンデの腕前を持つ父・正和さんに、練習場に連れられていったのがきっかけ。正和さんはクラブを握って間もなく「プロになりたい」と宣言した愛娘と一緒に、日本よりも安価で、優れたゴルフ環境があるフィリピンに向かった。当時8歳になったばかり。小学2年生の夏休みだった。 帰国後、転校手続きを行い、翌年から本格的に活動拠点をフィリピンに移して日夜ボールを打ち込む日々が始まった。朝から晩までゴルフ漬けだったが、9歳当時、打席から1Wで100yd地点にあった看板までボールを転がせられれば、「Oh…I’m happy」と大喜びしたという。 「ただただボールをいっぱい打って、ピンに近づかせて…。『飛ばしたい』という意識は、当時なかったですね。一日500球は打っていました。飛ぶこと、飛ばすことよりも、ボールを打つことが好きでした」。色んな球筋のショットを打ちたい、スピンをかけたいといった小難しい技術論云々ではなく、ボールがフェースに当たる感触と、目標物に向かって転がっていくボールを見るのを無邪気に楽しんでいた。
■大人用クラブとマッスルバックアイアン
飛距離が出なかったのは道具のせいもあった。当時、正和さんが笹生に用意したクラブは、シャフトを短く切っただけの大人用。アイアンはジュニアには扱いが難しかったであろうマッスルバック設計のミズノ製「MP33」。娘のために読み込んだ書籍にあった岡本綾子の「子どもの時は難しいクラブを使ったほうがいい」という言葉を参考にした。 笹生自身は「そのときは(シャフトが)硬いとか、軟らかいといったことは分からなかった。そもそもクラブの知識もないから、何がどう軟らかいのかもまったく分からなくて。でも(フィリピンの)練習場で一緒に打っていた男子プロゴルファーの人たちと同じクラブを使いたいという気持ちはあった」と明かす。 初めて新品のアイアンセットを手にしたのは12歳の頃。「(身長が)急に伸びたから、シャフトを短く切ったクラブだと打てなくて。新しいクラブを一式買ってもらった」。しかし、このアイアンには問題が…。いざ打ってみると、ボールがひたすら右方向に曲がっていく。実は購入したセットは一般的な女性アマチュア向けで、シャフトが軟らかすぎた。「何で当たらないんだ…?って(笑)」。結局“初代”のアイアンセットは1年もたたずに買い替えることとなった。