ロシアのウクライナ侵攻で浮かび上がる「国際的なSNS市民層」の存在 新たな市民層は世界をどう動かすのか?
古い戦車と新しいSNS
アルカイダやイスラム国(ISIL)によるテロとゲリラ戦が横行し、サイバー戦争や経済安全保障の問題が論じられてきた今日、ヘリコプターによる爆撃や、戦車による進軍は、もはや古めかしい印象だ。そしてその一方で、フェイスブックなどSNSをつうじて送られてくるウクライナからの動画が、世界中に拡散し、また先日は、日本の国会でもゼレンスキー大統領のオンライン演説が行われた。この戦争は、新旧共存するイメージが特徴となっている。 テレビも毎日のようにその動画を紹介し、新聞もそこからの情報を活字化している。インターネットをつうじた新しいコミュニケーションが、既成のマスコミを動かし、政治と世論を動かしつつある。 コンピューターがパーソナル化されたとき、マイクロソフトやアップルといった、挑戦的な若者たちがガレージから立ち上げた企業は、ベトナム戦争に反対した若者たちの運動に結びつけて語られた。また2010年ごろからの「アラブの春」では、インターネットとSNSの役割が強調された。そのころまで、パソコンとインターネットは人々の人間性(中でも民主主義とコミュニケーション)を拡張するものとして受け止められたのだ。 しかし次第に、コンピューターウイルスの問題や、ハッキング、人格攻撃、サイバー戦争、監視社会など、インターネットの発展が負の方向に働いて、社会を混乱させ、人間性を抑圧することが強調されるようになった。 そして今回は、インターネット特にSNSが、ロシアの攻撃によって破壊される都市と虐殺される市民の実態を、動画として世界に発信する手段として使われ、そこに生じる共感が、多くの国を、ロシアへの経済制裁、ウクライナへの武器供与、経済援助、難民受け入れなどに動かしている。国連でも、ロシア非難決議は圧倒的多数によって採択された。
動画は虚偽情報(フェイク)をあばく
今回の発信の主役は「動画」である。 それはテキスト(文章)や写真とは異なる臨場感をもつようだ。 新聞や雑誌の活字が戦争報道の主役であった時代には、従軍記者など、外部から戦場におもむいた書き手の取材力と文章力が大きな役割を果たした。そこにロバート・キャパや沢田教一のような戦場カメラマンの写真が臨場感を添えた。テレビ報道もそういった人々から送られてくるものを基本にしていた。 しかし今回送られてくる動画は、破壊されつつあるウクライナの国民からのもので、一般市民が撮影したものも多い。激しい戦闘の様子、残酷な被害の衝撃を、現場から、瞬時に、えぐるような生々しさをもって伝えている。 子を失って泣き叫ぶ母親、怪我をして運ばれる高齢者、戦う夫を残して避難する家族、死者を埋めるために掘られた穴、被弾して破壊される建築、燃えさかる炎。最近は病院も学校も容赦ない。「百聞は一見にしかず」という言葉のとおり、その映像は言語の違いを乗り越える普遍性があり、強い共感を生みながら広がっていく。 よく「情報戦争」といわれる。戦争はどちらもプロパガンダをもって戦うものだともいわれる。しかし今回ウクライナから送られてくる市民たちの動画は、そういうものとは一線を画している。むしろナマの事実によって、権力の「明らかな嘘をあばく」役割を果たしているのだ。もはや「勝てば正義」とか「嘘も言い負かせば真」といった論理は成り立たないのではないか。トゥルース(真実)がフェイク(虚偽)を打ち負かしているように見える。 またそこにはコンピューターやインターネットとともに、カメラの技術進歩もかかわっている。現代は、カメラとパターン認識とAIの技術が権力による市民の監視に力を与えているのだが、今回は、カメラとSNSが市民による権力の監視に力を与えている。人類の視覚能力が急速に拡大し、報道機関だけではなく一般市民による視覚コミュニケーションが社会を変えているのだ。