苦しい胸中を『蜻蛉日記』に綴った藤原道綱母
5月5日(日)放送の『光る君へ』第18回「岐路」では、まひろ(のちの紫式部/むらさきしきぶ/吉高由里子)が長らく憎しみを抱いてきた、母の仇である藤原道兼(ふじわらのみちかね/玉置玲央)の死が描かれた。一方、藤原道長(みちなが/柄本佑)は右大臣に昇進。思いがけない出世に、道長は初心に立ち返るべく、まひろと逢瀬を重ねた廃屋を訪れるのだった。 ■藤原道長が政権トップの座に躍り出る 筑前守として太宰府に赴任していた藤原宣孝(のぶたか/佐々木蔵之介)が都に戻ってくる。宣孝が任地で見聞きしてきた宋の国の話に、まひろは胸を踊らせていた。 その頃、宮中では関白の死去から10日が経ち、公卿らの関心は次の関白が誰になるかに集中した。その様子を影から見ていた一条天皇(塩野瑛久)は、次の関白を天皇の叔父である藤原道兼に決定する。道兼を適任とする公卿らの考えを尊重したのは、不要な混乱を避けるためだ。 ところが、道兼は就任早々に急逝。兄の為す政治に期待していた弟の藤原道長は、あまりに突然となった別れに呆然とする。 一方、道兼に母を殺されていたまひろは訃報に接し、静かに鎮魂の琵琶を奏でた。 空座となった関白について、次の人選について再び宮中の議論が紛糾した。一条天皇は、寵愛する中宮・藤原定子(さだこ/ていし/高畑充希)の兄である藤原伊周(これちか/三浦翔平)に決めていたが、生母である女院・藤原詮子(あきこ/せんし/吉田羊)の涙ながらの訴えに心が揺らいだ。一条天皇は最終的に、関白職を定めず、詮子の弟である道長に内覧宣旨を下した。詮子の嘆願を半ば聞き入れる形となったのは、最愛の妻と、母との板挟みになった天皇の、苦渋の決断だった。 内覧を取り上げられた格好となった伊周が定子に当たり散らすなか、道長は続いて右大臣に就任。実質的な公卿のトップに立つこととなった。初心に立ち返るべく、道長はかつて、まひろに出世を約束した廃屋を訪れた。すると、そこにはまひろも佇んでいたのだった。 ■道綱母の文学は『源氏物語』に大きな影響を与えた 藤原道綱母(みちつなのはは)は、正四位下伊勢守を務めた藤原倫寧(ともやす)の娘として生まれた。生年は不明。母は諸説あり、刑部大輔・源認の娘や、主殿頭春通女の名前が挙がっているが分かっていない。実名も不詳である。 父の倫寧が『後拾遺(ごしゅうい)和歌集』に一首が残る歌人であるほか、『更級日記』の筆者である菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)は姪にあたる。 954(天暦8)年に藤原兼家(かねいえ)から求婚され、結婚。翌年には道綱が誕生している。道綱母の著した『蜻蛉(かげろう)日記』は日記文学として後世に読み継がれることになるが、この日記を書き始めたのが、兼家との結婚直後からだったといわれている。