苦しい胸中を『蜻蛉日記』に綴った藤原道綱母
『蜻蛉日記』には、兼家と結婚する以前に、いくつかの恋愛関係があったことをほのめかす記述がある。言い寄る男性が複数いたようで、「本朝三美人」と称されるほどの美しさを誇った女性だったらしい。 藤原北家の御曹司と結婚した道綱母だったが、順風満帆というわけではなかった。結婚生活2年目には、兼家が自身のもとを訪れなくなったことを嘆く歌が『蜻蛉日記』に残されている。文人としての道綱母の高いプライドが兼家を遠ざけた、とする説もある。 兼家の関心を取り戻すには入内させる娘を生む必要がある、と考えた道綱母は、石山寺などに通って出産を祈願するなどしていたが、成就することはなかった。 また、兼家のささやく甘言を信じて「いつか正妻に」との希望を持ち続けていたようだが、兼家が寵愛したのは道綱母より先に結婚した時姫(ときひめ)のほうだった。 時姫の生んだ長女・超子が968(安和元)年に冷泉(れいぜい)天皇の女御となったことや、970(天禄元)年に完成した兼家の邸宅である東三条殿に呼ばれなかったことで、道綱母は正妻となる希望を完全に失ったらしい。この時の苦しい胸の内を「我が身が厭わしく、兼家が恨めしく」と、『蜻蛉日記』で明かしている。 974(天延2)年の大晦日には『蜻蛉日記』の記述を終えた。この頃になると、兼家とはほとんど離縁の状態だったようだ。 息子の道綱は、兼家にとっての次男ということもあり、大納言まで官位を上げたが、時姫の息子である藤原道隆(みちたか)、道兼、道長の兄弟に比べると、かなり見劣りする印象は否めない。これは、正妻と愛妾という生母の身分の違いというより、道綱の能力に問題があったようだ。公卿の藤原実資(さねすけ)は「名は書けるが一、二を知らない」(『小右記』)と道綱の仕事ぶりをひどくこきおろしている。 晩年は鴨川に近い場所の屋敷に住まいを移し、歌人として余生を過ごした。995(長徳元)年に死去。折しも、兼家の正妻の子である道隆、道兼が相次いで亡くなるさなかの時期だった。 『小倉百人一首』に歌が選ばれるなど、歌人としても広く名が知られた。和歌を交えた日記文学『蜻蛉日記』は、のちの紫式部『源氏物語』の作風に大きく影響を及ぼしたといわれている。
小野 雅彦