庶民が見た幕末をかわら版が活写 ヒーロー抜きの尊王攘夷、歓喜と不安と恐怖
禁門の変の後、この被害状況に激怒した孝明天皇は、幕府に長州征討を命じる。征討のための軍は、総督が尾張藩の前藩主だった徳川慶勝(1824~1883年)、副将が福井藩主の松平茂昭(1836~1890年)、参謀が薩摩藩士の西郷隆盛(1827~1877年)だった。 次に掲載するのは、この第1次長州征討を伝えるかわら版である。
美しい多色刷りの一枚だが、報じる内容は全くもって明るくない。これは、長州藩を21藩15万人の兵が包囲している様子を描いているのである。まさに、「朝敵」長州藩は風前の灯火だった。 だが、一旦は11月18日と日付まで決まった長州への総攻撃は、中止されることとなった。長州藩主が降伏し、禁門の変における責任者だった3家老の切腹などの条件を飲んだからである。なぜ、戦は行われなかったのだろうか。それは、長州藩の「実行」した攘夷が、何倍もの大きさで「お返し」されていたからである。それによって、彼らに戦をする体力など残っていなかった。 長州藩への手痛い「お返し」とは、英仏蘭米の四国連合艦隊による、下関への砲撃である。計17隻の外国船は、8月5日に攻撃を開始した。貧弱だった長州側の砲台は、わずか1時間ほどでほぼ潰滅したという。長州藩は8日に休戦の申し入れを行い、下関戦争は終結した。ただし、長州藩は「戦争責任は幕府にある」として、賠償金は幕府に要求するように連合軍に伝えている。 これで、長州藩の勢いが減じたと思ったら、大間違いである。この後、藩内では高杉晋作(1839~1867年)率いる倒幕派がクーデターにより実権を奪取、軍制改革にまで乗り出す。この動きを見て、幕府は再び長州を叩かざるをえなくなった。第2次長州征討の始まりである。 1865(慶応1)年、家茂は軍を率いて江戸を出る。目的地は、本陣となる大坂城である。将軍の出陣は約250年振りであり、この行列を一目見ようと江戸中から人が集まった。そしてもちろん、かわら版屋もこの機会を逃すはずがない。もはやお家芸となっていた、行列絵図を作って売り出したのである。