庶民が見た幕末をかわら版が活写 ヒーロー抜きの尊王攘夷、歓喜と不安と恐怖
庶民を不安と恐怖に陥れた、禁門の変と「どんどん焼け」
かくして、尊王攘夷派の最右翼となった長州は、天皇に誓った攘夷を決行しない幕府への批判を強める。そして、その思いは、倒幕という目標に収れんしていった。 長州藩は徳川家を政権から引きずり下ろすため、孝明天皇単独による攘夷祈願の「大和行幸」(神武陵参拝など)を実現させようと考えた。これは、天下に攘夷を号令することであると同時に、幕府から朝廷に対する実権を抜き取るものでもあった。ストレートに表現すれば、長州藩は大和行幸を、天皇を頂点とした新たな国家体制作りの足掛かりにしようとしたのである。 しかし、この動きにブレーキをかけたのが、誰あろう孝明天皇だった。結果、行幸は中止され、長州藩と尊王攘夷派の公家たちは京都から追放されてしまう。世に言う「8月18日の政変」、および「七卿落ち」である。 この辺りの動きは、庶民にとってほとんど関係がない話だった。それは、京都や大坂に住む者であっても、である。公武合体派と尊王攘夷派の争いは大変激しいものだったが、それはあくまでも政治的な話であり、戦闘を伴ったものではなかったからである。ところが、平穏に日常生活を営む人々に、災厄が降り掛かる日がきてしまう。それが、1864(元治1)年7月19日に起こった、「禁門(禁裏=天皇の住居の門)の変」である。 失地回復を狙い、3家老に率いられて上洛してきた長州藩兵は、御所の蛤(はまぐり)御門付近で、会津、薩摩、桑名などの連合軍と激突する。結果は、長州の惨敗だった。戦自体は半日ほどで決着がついたものの、この戦によって周囲は火の海となる。俗に「どんどん焼け」、あるいは「鉄砲焼け」と呼ばれる大火である。
二度の長州征討、
ここに掲載したのは、禁門の変によって起きた大火の被害状況を伝えるかわら版である。書かれた地名から考えて、左が北、右が南である。速報版と思われ、作りも刷りも荒いが、その分とても生々しい。黒い部分が焼失した地域を表しており、その上に被害状況の説明とともに、「死者カズシレズ」と不気味に刻まれている。 記録として残っているところによると、この大火は2日間も続き、2万8000戸の家屋が焼失するほどのものだった。