庶民が見た幕末をかわら版が活写 ヒーロー抜きの尊王攘夷、歓喜と不安と恐怖
勇ましく出陣した家茂は、自軍の勝利を微塵も疑っていなかったことだろう。ところが、現実は全く違っていた。 下関戦争での惨敗は、長州の精神を大きく変えていた。いくら攘夷といえども、兵制などは西洋式が優れていることを、素直に認めたのである。また、翌年に成立した薩長同盟によって、長州藩は薩摩藩を通じてイギリスから大量の兵器も購入した。これによって、長州藩はまさに「別人」と化していた。 幕府と長州藩の戦いは、1866(慶応2)年6月7日に開始されるが、10万超の幕府軍は、たった3500人で迎え撃つ長州軍に手も足も出なかった。各地で敗戦を重ね、時間の経過とともに状況は幕府に不利となってきた。 勝敗の決定打は、意外な場所で生じる。7月20日、敗戦の報が続々と届く中、家茂が病没するのである。わずか21歳の将軍は、大坂城で人生の幕を閉じた。公武合体の「道具」として降嫁したものの、意外にも家茂と良好な夫婦関係を築いていた和宮は、7月25日に江戸で訃報を聞き、落涙したという。 9月2日、幕府は長州と休戦協定を結ぶ。今度の戦は、幕府にとって屈辱的な惨敗に終わった。幕藩体制が音を立てて崩れ始めるのは、ここからである。そのことは当然、幕府によってなされていた出版統制、表現規制が緩んでいくことも意味していた。この後、かわら版屋は、長らく厳禁とされていた政治に関する報道に乗り出すのである。 (大阪学院大学 経済学部 准教授 森田健司)