庶民が見た幕末をかわら版が活写 ヒーロー抜きの尊王攘夷、歓喜と不安と恐怖
かわら版屋、勝機再び 大きく報じられた「229年ぶりに上洛した将軍」
和宮一行が江戸の清水邸に到着したのが、11月15日。この長旅の後、よく知られる天璋院一派との諍(いさか)いが繰り広げられるのだが、家茂との婚儀自体は、翌年2月11日に無事執り行われた。このとき、和宮も家茂も17歳。結婚に至る道は険しかったが、二人は意外にも相性が良かったようである。そして、家茂の周到な心配りによって、和宮は大奥において安心できる生活環境を確保できたという。 しかし、その結婚からわずか1年後の1863(文久3)年2月13日、今度は家茂が京都に向かって出発する。朝廷からの要請を受けてのものである。実質は、家茂の義兄である孝明天皇が、いつまで経っても攘夷を「実行」しない幕府にしびれを切らして呼び付けたのだった。 江戸から京都に向かう家茂一行は、約3000人。和宮の大行列の10分の1の規模ではあるが、将軍の上洛は第3代家光以来、なんと229年ぶりとあって、こちらも大事件である。かわら版屋にとっては、再び最高の商機が巡ってきた。 次に掲載するのは、この家茂の上洛を報じるかわら版「御上洛御供奉御用掛御役人附」である。
行列に加え、江戸から京都までの宿場の名が書き入れられ、大変見応えのある一枚となっている。上部には、行列に参加した藩の詳細も、藩主の家紋とともに記されている。そして、驚くべきは、このかわら版のサイズなのだ。なんと、全長140センチメートルにも達するものなのである。 ここまでかわら版屋が力を入れたのは、「絶対売れる」と確信していたからである。実際、家茂上洛の行列絵図も大受けで、これ以外にも多種多様な刷り物が売り出された。庶民にとって大行列は見世物で、それを見た記念として、このかわら版を購入したのだろう。 上洛した家茂は、やむなく攘夷の「決行」日を約束する。5月10日である。しかし、「攘夷を決行する」とは、一体何を意味するのだろう。字義通りであれば、外国の勢力に攻撃をしかけるということになるかも知れない。しかし、現実的に考えて、列強と武力で争っても勝ち目は一切ない。だから、幕府の伝えた「攘夷を決行する」という文言に、実質的な意味はほとんどなかった。 ところが。この攘夷を、文字通り「実行」する藩が出た。長州藩である。5月10日、長州藩は下関海峡を通過する外国商船に砲撃を加え始めたのだった。