社会学者・上野千鶴子:“どうせ変わらない” 世の中を変えていくために
「男女雇用機会均等法」が分断の始まり
1960年代後半から70年代にかけて、世界同時多発的なウーマン・リブ運動が起きた。日本では、学生運動に失望した女たちが運動の担い手となる。その中心的存在が、「母性」や男性の性的搾取の対象からの解放を訴えた田中美津さん(8月7日、81歳で死去)だった。人工中絶の要件から「経済的理由」を除外しようとした旧優生保護法改正案に、「産む・産まないは女の権利」と抵抗して廃案に追い込んだ。 1975年、国際連合が同年を「国際女性年」に定め、第1回女性会議がメキシコで開催された。これをきっかけに、日本全国の女性団体が結束して性差別社会の変革を目指した。 「この頃から、『フェミニズム』という言葉が表舞台に出て各国が取り組むべき課題になり、日本でも国策化していきました」 85年、日本は国連の女性差別撤廃条約を批准するにあたり、国内法を整備する必要から、「男女雇用機会均等法」を制定した。 「条約批准に間に合わせるために駆け込みで作ったようなものです。当初、女性団体は雇用平等法を求めていたのに、政府は機会均等法にすり替えました。要するに、男並みに働く機会を君たちにも均等に与えてやるから、競争に参入して勝ち抜けということです。女性保護規定を捨てさせる一方、男たちの働き方は一切不問にしました」 「機会均等法の下、(幹部候補の)『総合職』、(サポート業務中心の)『一般職』を分離するコース別採用を導入することで、経営側は何も変えずにすみました。総合職の女性は一握りで、一般職は全て女性です。当時、総合職女性にも制服を着せるか、お茶くみ当番から外すべきかが、おじさんたちの論争の種でした」 「頑張って総合職に食い込め、歯を食いしばって生き残れ。それがフェミニズムなのか?“そんなわけがない!”と、当時の私は直感的に思いました。フェミニズムは、女が男のようにふるまいたい、弱者が強者になりたいという思想ではない。弱者が弱者のまま尊重される社会を求める思想だと思い始めたのは、この頃からです」 「均等法第一世代は“男並み”に働いて、多くの犠牲を払いました。ようやく昨今の『働き方改革』で男の働き方が問われるようになるまでに、40年もかかってしまったわけです」 一方、1980年代には、団塊世代の主婦たちの多くが、ポスト育児期に家計補助収入を求めてパートやアルバイトで働くようになる。85年には労働者派遣法も成立。雇用の規制緩和が進んで非正規雇用が増加。その多くは女性だった。 「総合職、一般職、正規、非正規と、女性の分断が始まりました。政治的に作られた明らかな人災です」 前述の「アグネス論争」の背景には、私生活のにおいを消して、必死に勝ち抜こうとしている均等法第一世代の女性たちがいたのだ。