社会学者・上野千鶴子:“どうせ変わらない” 世の中を変えていくために
中国では、中国語の字幕付きで動画がネット上で拡散し、20冊以上の著書が翻訳出版されてベストセラーとなる「上野千鶴子ブーム」が起きた。タイム誌は「世界の100人」選出の理由として、「結婚と出産への圧力に静かに反発する中国女性のロールモデルになっている」ことを挙げている。 上野さん自身は、どんな生き方を選択してきたのだろうか。 「私は北陸の3世代同居家庭で育ちました。父はワンマンの亭主関白で、おまけにマザコン。娘の私を甘やかしましたが、兄、弟とは差別しました。息子たちには将来のためのレールを敷き、娘にはなんの期待もしない。私は単に『ペット愛』の対象だったのです」
「父と母は恋愛結婚。でも、母は男を見る目がなかったと自分を責めていました。10代のとき、そんな母を見て、『お母さん、あなたの不幸は夫を変えてもなくならないよ』と思いました。ごく普通の善良な市民だった男女が、結婚という制度の中に入ると、不幸な結果を生む。それは家父長制の構造がもたらす問題であって、結婚相手が変わっても解決しないと気付いたのです。だから、私は結婚の罠(わな)にはまらないと決めて、今日まで生きてきました」
「女性学」との出会い
1967年、京都大学文学部哲学科に進学して、社会学を専攻する。在学時期は全共闘運動の真っただ中。上野さんもバリケード封鎖やベトナム反戦の路上デモなどに参加したが、やがて「バリケードの内側」の露骨な性別役割分担に幻滅する。 「同世代の団塊世代の男たちは、頭はリベラルでも、首から下は家父長制で固まっていました。あの時、あの場で彼らに何を言われ、何をされたか。恨みつらみは山ほどあります」 「母親のようにはなりたくない」という思い、そして学生運動の苦い経験が、フェミニズム、そして「女性学」の道に進む土壌となった。女性学と出会ったのは、1970年代後半、大学院生の時だった。60年代の女性解放運動(ウーマン・リブ)の影響を受けて米国で生まれた「女の女による女のための」学問だ。自分自身を研究対象にできることが「目からうろこ」で、夢中になったという。 大学教員を務めながら「主婦」の研究に取り組み、1990年、『家父長制と資本制』を刊行して、家事も「労働」であると提唱した。当時、経済学者や「家事は愛の行為」だとする主婦たちからも猛反発があったが、「家事は不払い労働」の概念は定着していった。