「灘中高→京大」から伝統芸能の世界に。最強の学歴でも、本人が「落伍者」だと思っている理由
社会人としては落第生だと思っている
――河田さんは大学卒業後、しばらく働きながら狂言を披露する活動をされていますよね。いわゆるエリートでありながら、まさに狂言に捧げた人生のようにもみえます。そこまで魅せられたのはなぜだったのでしょう? 河田:誤解があるとまずいので伝えておきたいのですが、私は別にエリートではないんです。むしろ、かなり不器用な方でして……。40歳手前までアルバイトで食いつないだりしながら狂言をやってきましたが、むしろ社会人としては落第生だと思っています。人間関係の面では悩むことも多かったし、恥ずかしい話、遅刻も結構しました。自分に期待されているタスクをこなすことができず、億劫になって逃げ出したくなってしまうんです。会社に行けなくなって、迷惑をかけたこともあります。どちらかというと、ダメな人間です。 ただ、狂言の魅力については、そんな自分と通じるところがあるんです。狂言をはじめとする古典芸能は概ねそうだと思うのですが、人間の弱い部分、ダメなところをありのまま肯定して受け入れてくれる寛容さがあります。「こうあらねばならない」という社会規範から外れても、どこかに救いがある。つまるところ、狂言の魅力はその懐の深さにあるのかもしれません。
狂言は「意外と身近」だと知った時の聴衆は…
――これまで、「サラリーマン狂言」シリーズをはじめとしてさまざまな創作狂言を行っていますよね。古典芸能であっても、現代に通じる考え方や感性があるのですね。 河田:私がサラリーマン狂言を制作し始めたのは2015年のことです。当時、給湯流茶道という団体があり、そこの狂言事業部が立ち上がったことがきっかけです。給湯流茶道は、メンバーそれぞれ本職を持ちながら、休みの日に芸能に打ち込む人たちの団体です。 私が創作狂言を通じて感じてほしいことは、狂言という遥か昔に成立した芸能が、現代においても十分通じる感情の機微を持っていることです。 たとえば、狂言の演目に『武悪』というものがあります。これは主から怠け者の同僚・武悪を討つように命じられた太郎冠者が、懊悩しながらも武悪と対峙し、結局はわざと見逃して主には討伐したと嘘の報告をするんです。しかしひょんな場所で主と武悪はばったり会ってしまって――というような話です。そこには、怠け者と言えどともに過ごしてきた武悪への感情があったり、雇用主からの期待にどう応えるかという義務感もあったり、あるいは主の目線に立てば別の見方も成り立つ。現代の会社員が抱える、同期や上司との付き合い方にも通じますよね。 狂言は遠く感じるかもしれないけれど、意外と身近なのだということを知ってもらうと、聴衆の顔がぱっと明るくなるときがあるんです。そういう瞬間に出会うために演じているのかもしれません。