高田文夫が人生を語り始めた お笑い、映画、歌謡、雑誌編集…「芸能の申し子」 水道橋博士の藝人余録 /8
ところが、コロナを超えて来た辺りからであろうか、センセーがラジオで半生を語りだすようなことが多くなった。ボクはセンセーから聞いたどんな細かいことでもメモに取っていたが、最近のラジオでは、公にはほとんど言ってないような初出の思い出話がポロポロと溢(あふ)れ出ていた。 ◇伝説の不良・花形敬から野球をコーチ そもそも根っからの、あれだけの〝笑い欲しがりさん〟である。ジャニーズ問題が湧き起こると、もう耐え切れなくなったかのようにラジオでジャニー喜多川氏との知られざるエピソードを語りだした。 友人と少年野球チームを結成していた頃、コーチ役を買って出てくれたのが渋谷の安藤組の右腕、本田靖春『疵・花形敬とその時代』でも知られる伝説の不良・花形敬であったりしたのだが、その時、対戦したチームがジャニー喜多川ひきいる渋谷・松濤(しょうとう)の野球チーム「ジャニーズ」で、その華麗なバットとボールさばきで二戦二敗。本書では割愛されていたが、ラジオでは、試合後ジャニーさんに「ユー、これから『ウエスト・サイド物語』観(み)に行かない?」と誘われたが、高田少年は「『社長漫遊記』の上映時間がそろそろなので」と言って断り難を逃れた。 さらに本書でも触れられていた、放送作家/落語家の早すぎた二刀流・高田文夫を形作った恩人、日大芸術学部時代に落語研究会で知り合った後の古今亭右朝(2001年没)や、「幸福」すぎて早くに燃え尽きた直木賞作家の景山民夫との青春譚もラジオで時折語っていた。 快活で仕切り屋のお母様のこと、若き日の青山学院大の後輩学生、後の三遊亭楽太郎(圓楽)師匠との思い出、ラジオを通じて、昨今はセンセーの半生がくっきりと輪郭を帯びてきた。 「ぜひ弟子になって下さい」の永六輔からの手紙の話は、ボクは以前にセンセーを浅草東洋館(旧フランス座)に招いて、サシでたっぷり聞き出した鉄板の噺だが、なんど聞いても活字で読み直しても面白すぎる。