高田文夫が人生を語り始めた お笑い、映画、歌謡、雑誌編集…「芸能の申し子」 水道橋博士の藝人余録 /8
「ビートたけしと高田文夫」。 この名コンビによる(ボクに言わせればラジオ界の王・長嶋!)速射砲トークの応酬は深夜放送の概念を一変させ、その後のボクの人生を狂わせた。 親に一言も相談することなく明治大学進学を口実に上京し、ビートたけしに弟子入りしようという人生目標を与えてくれた。毎週木曜日の深夜、正座して写経のようにふたりの福音をノートに記していた。 果たして上京が叶(かな)うと一度は挫折したものの、23歳の時、意を決して、毎週、ニッポン放送前で出待ちを続け、6カ月後にお目通りが叶い、土下座の末に入門に成功、ストリップ小屋の「フランス座」に預けられた。 といっても、弟子入り順としては、「たけし軍団」、「たけし軍団セピア」に続く、余剰人員集団である「浅草キッドブラザーズ」、つまりは17番目の末弟だった。 ◇謎に包まれた高田センセーのプライベート 1985年、『ビートたけしのオールナイトニッポン』の出待ちの身からスタジオに入れる身分となると、高田センセーの姿を間近に窺(うかが)えるようになった。 ボクと玉袋筋太郎がフランス座で「浅草キッド」というコンビ名で漫才を開始すると、いきなり若手の有望株へと躍り出た。どこへ行っても連戦連勝。コンテストでは常勝を続けて、1988年にはテレビ朝日『テレビ演芸』を10週連続勝ち抜いた。 この時、高田センセーに神楽坂のステーキ屋に呼ばれて、ふたりきりで食事した。 「大瀧詠一って知っている?」と問われて「あの一水会の鈴木邦男に似た人ですね」と応えると「イイね!!」と笑って見立てを褒められた。「ボク、一水会の機関誌の『月刊レコンキスタ』を読んでいます」と言うと更に爆笑され「イイね!」のサムズアップの連発だった。俺の話を5分以上も聞いてもらってあんなに受けてもらえたのは生まれて初めてだった。 そして、食事の後、ハイライトを立て続けに吸いながら「オレにまかせろよ!」と言われて、たけし軍団初の本格的漫才コンビとしてプロデュース役を承諾して頂いた。あの日以来、高田文夫とは、「ボクの好きな先生」であり「あなたに褒められたくて」であり、そしてボクにとっての徒弟制度とは、武と文夫を師匠に戴く「文武両道」がモットーなのだ。