高田文夫が人生を語り始めた お笑い、映画、歌謡、雑誌編集…「芸能の申し子」 水道橋博士の藝人余録 /8
1990年、オールナイトが終了し、その前年からソロデビューし、『ラジオビバリー昼ズ』が始まると、センセーとの付き合いもさらに濃厚になっていった。 立川流家元・立川談志の命により、東京の若手芸人、落語家、漫才師、色物を横断的に束ねた「関東高田組」を旗揚げした。関東高田組では、続々と異種格闘技戦形式のライブが開催され、春風亭昇太や立川ボーイズ(談春・志らく)などなど、現在ではすっかり大立者に出世した落語家たちと切磋琢磨(せっさたくま)の時を過ごした。 そして1997年から2013年まで新宿の紀伊國屋ホール・サザンシアターの一流の舞台で、『我らの高田〝笑〟学校』が開催された。 ボクがそれ以前に「高田文夫vs.立川藤志楼ひとり時間差落語会」(山藤章二企画)の舞台にどれほど憧れて、新人時代にこの舞台に立てたことがどれほど自信になったか。その後継企画なのだ。このライブはセンセーをして曰(いわ)く「漫才師・浅草キッドにトリを取らせるためのキッドのライブ」だった。定席を持たなかった流浪の芸人だったボクたちは、この舞台を唯一漫才師として本腰を入れる本場所として位置づけ、20年にわたってトリを務め、毎回30分を越える一回きりの新ネタを下ろし続けた。 そんななか、永らくボクは高田文夫の評伝、人物伝を書きたいとセンセーにも直接言い続けてきたが、許しをいただけたことはなかった。 今はまだ人生を語らずなのか、なにかそこには踏み込んではいけないタブーのようなオーラが充満していた。 しかし、7年前にはボクが主催するライブで『高田文夫20世紀年表 20万字版』(相沢直・作)を自主出版(無料)で配布することを許可してくれたが、センセーのプライベートは知らないことばかりだった。 本書によるとセンセーは姉3人兄1人の末っ子だが、あまりご兄弟の話は聞かない。その家族の爪痕を残さない様は、かの「アイアンクロー」のエリック一家より悲劇的ではなく喜劇的に謎に包まれていた。