倉本聰氏 会社員を辞めることを決意した大事件告白「心臓に鉛の塊が入ったみたい」「もうダメだ、と」
脚本家の倉本聰氏(89)が14日放送のTBS「人生最高レストラン」(土曜後11・30)にゲスト出演。会社員を辞めた大事件を明かした。 倉本氏は都内の名門高校から東大に進学。大学時代から脚本を書き始め、1959年にニッポン放送に入社。ラジオ番組のADとしてキャリアをスタートさせた。 第1希望はフジテレビだったというが「フジテレビに入りたかったのよ。ところがフジテレビの開局の年で、ニッポン放送と文化放送が金出して作ったのよ。3社合同のマンモス試験っていうのをやったの。それで、フジテレビじゃなくて、ニッポン放送に回されちゃったの」と苦笑した。 当時について「(ラジオ番組の)作家たちがテレビの番組を持ち始めているのよ。番組をいくつも持たされていると書けないのよ。上役が“自分で書け”っていうわけ。それをやっているうちに、売れちゃったんだよ」と倉本氏。「(売れたのは)全部他の局、テレビ局」と笑った。 これに、MCの「極楽とんぼ」加藤浩次は「内職やってた?ダメですよね?」とツッコミ。倉本氏は「もちろん、ダメ。倉本聰っていうペンネームを使ったの」とさらり。「ある日、部長に呼ばれて、“お前は若いくせに古い作家しか使ってない”って言うんだよ。“最近、倉本っていうのが出てきたから、会ってこい”って言われて。時間潰して“どうだった?”っていうから、“大したことないヤツでした”って(報告した)。でも、“そろそろ危ないな”と思って。そのあと、エラいことやっちゃったの。事件が起きちゃったの」とした。 その事件とは、他局のテレビ番組の脚本を続け、ラジオでも多くの番組を掛け持ち、疲れがピークに達した頃、渥美清さんと水谷良重(水谷八重子)が出演するラジオドラマ「天下晴れて」でのこと。倉本氏は「当時は使い終わったテープをすぐ消去しろって。使い回すから、消しちゃえと。で、消したらしいのよ。明日朝からの『天下晴れて』の放送テープが出ていないと。“え~”と思って、探したんだけど、ないんだよ。それが夕方の7時ぐらい。それで良重と渥美清に電話したの、“何とかして作ってくれ”って。渥美清は売れ出した時だったの、午前3時なら来られるって。3時でもいいから、来てくださいって。良重のところに電話したら、ヨーロッパ行ってていない。もうズドンですよ、心臓に鉛の塊が入ったみたい。死にたくなったね」と回顧した。 「それで、帰っちゃったの、家へ。もうダメだ、と思って。気がづいたら(夜の)10時なんだよ。そのとき、天の助けがくるのよ」と倉本氏。「会社から古い台本を持ち出して、2人の会話でしょ、水谷良重のどうでもいい会話、“へ~”とか“それでどうしたの?”とか。水谷良重はそれだけ。それに対する渥美清のセリフを新しくくっつけた。その台本を1週間分、作ったわけ。3時に渥美清が入ってきて、“アンタは偉い”って言ってくれて。渥美清がテキトーに救い上げてくれて。それで出したのが午前6時に近かった」とギリギリ何とかなった現場を振り返った。 「その時、俺、天才じゃないかって思ったね」と冗談めかしでいいつつも「“もうダメだ”と思って。それで(ニッポン放送を)辞めた」と明かした。 倉本氏は「前略おふくろ様」「北の国から」シリーズなど多くのヒット作を生み出した脚本家。65歳で紫綬褒章、75歳で旭日小綬章を受章した。北海道富良野市に移住して約50年となる。