「長所と短所」が仲の良い子とまったく同じ…「演劇の出演時間も平等」均一化を求める衝撃の教育現場
現代の学校では、行き過ぎた平等主義によって、子どもたちが競争を恐れるようになりつつあるという。たとえ良いことであっても、自分だけが「浮く」と考え、それを避けようとする傾向にあるそうだ。特にその傾向はコロナ禍以降、急激に高まりつつあるらしい。 「そ、そこやめて!」セックス、違法薬物…毒親に苦しめられる少女たち「生々しい実態」写真 こうした傾向を【前編:「浮く」を恐れる子どもたち】で見てきたが、コロナ禍以降の学校ではどういう事態が起きつつあるのか。保育園から高校まで200人以上の教育関係者の声を拾い集めた近著『ルポ スマホ育児が子どもを壊す』から、その実態について先生方の生の声を紹介したい。 ’20年から実質3年間つづいたコロナ禍によって、学校の体制が大きく変わったと指摘する先生は少なくない。それまでは生徒の個性を伸ばそうとする空気があったのだが、コロナ禍を経たことで逆にそれを押さえ込もうとする空気に変わりつつあるらしい。 愛知県の中学校の校長は次のように話す。 「コロナ禍ではとにかく『~するな』じゃないですか。感染予防を理由に、生徒たちのやりたいと思うことをことごとく押さえ込み、全員にまったく同じ規律や生活を求めました。それが3年間もつづいたことで、学校から生徒の個性を引き出そうという空気が薄れてしまい、生徒たちもそのトラウマのせいで自分を出さないようになったのだと思います」 ◆進んだ学校内の「分断」 コロナ禍では、みんなでそろってマスクをし、厳格なルールの中で授業から給食まであらゆることをした。少しでもそこから外れれば「マスクをしなさい!」「私語は禁止!」と厳しく指導された。それによって、子どもたちはいつしか自発的な思考や言動を示さなくなっていったという。 ただし、子どもは環境さえ変われば、意識や行動を変化させるものだ。学校が均一化を求める空気を失くせば、子どもたちも自主性を花開かせる。問題は、コロナ禍が終焉した今もなお、管理的で窮屈な状況が継続されていることだという。 まず、先生方が指摘するのは、コロナ禍によって学校内での「分断」が進んだということだ。別の中学の先生の話だ。 「コロナ禍の感染予防対策で、学校のルールは大きく変わりました。休み時間は子どもたちが好きなところで好きに過ごしていたのに、このクラスは体育館、このクラスは屋上、このクラスは校庭のこのブロック、と居場所を決められるようになった。また、他のクラスへの行き来も禁じられました。 運動会も午前中だけになって、学年ごとに別々に行われるようになりました。午前9~10時は1年生、10~11時は2年生、11時~12時は3年生と分けられ、ある学年が校庭で運動会をやっている間は、別の学年は見学や応援をせずに教室で通常の授業をする。 コロナ禍が終わっても、こうしたやり方はずっとつづいています。コロナ禍の時は感染症対策として行われていたことが、コロナ禍が終わった後も、子どもを管理する上で都合がいいとか、教員の仕事の負担が減るからといった理由で継続されているのです。一部の校長や教育委員会は『運動会の合理化』『教員の働き方改革』なんて言いかたをしていますが、子どもたちがそんなことを求めているでしょうか」 こうしたことが広く行われているのだとしたら、学校の中で子どもたちの関係性は分断され、狭い人間関係だけが濃密になっていく。そうなれば子どもたちの同一性はより高まらざるをえない。 そこにきて、学校はさらなる均一化を子どもに求める傾向にあるらしい。別の中学の先生は言う。 「コロナ禍の後にいろんなものが刷新される中で、生徒に均一性を求めることがますます増えた気がします。たとえば昔は文化祭で演劇をやるって決まったら、セリフがたくさんある主役の子もいれば、一場面にだけ登場して一言しゃべってお役目御免といった脇役の子もいたじゃないですか。だから、主役になりたいという気持ちが湧いたり、逆に自分は裏方のほうが合っていると気づいたりした。それが子どもの成長だったわけです。しかし今は、全員に同じ時間だけ出演させ、同じくらいの長さのセリフを与えるのがよいとされています。 授業も同じです。できる子にだけたくさん発言させるのは差別ということでNGになっています。できない子にも平等に当てなければならない。私なんかにすれば、学習障害のあるような子にまで当てることのほうが残酷な気もするのですが。いずれにせよ、こうした傾向はコロナ禍前からあったんですけど、コロナ禍後の学校運営を見直していく中で、より増えたように思います」 子どもによって得意不得意は違うし、性格も異なる。本来、学校の先生がやるべきは、子どもたちの個性を見つけ、その子が活躍する場を提供することではないだろうか。 たとえば、運動が得意な子には体育の授業や運動会で活躍の場を与え、手先が器用な子には技術や美術の授業で活躍の場を与えるといったようにだ。 ◆10人中7、8人は自分を話せない しかし、子どもの個性を無視し、あらゆる分野で平等化を押し進めれば、子どもたちが他の子たちと同じであろうとするあまり、「浮く」ことを極端に恐れるのは致し方がない。 先生方によれば、今、学校で起きつつあるのは、こういう形での均一化だというのである。そしてこういう子どもには、ある特徴があらわれるらしい。 先生は話す。 「みんなの真似をしてきたとか、大人に言われたルールだけをきちんと守ってきたという生徒はたくさんいます。こういう子たちは、自分自身を隠そうとしてしまう。教員だけでなく、他の生徒にも本音を見せない。 私が心配しているのは、そういうことをつづけているうちに、本当の自分を見失ってしまう子が少なからずいることです。本当の自分を隠すというのは、自分自身を見つける機会をなくすことに他なりません。そうなると、自分自身のことがよくわからなくなるのです」 自分がわからないとはどういうことなのだろう。 「生徒に『自分の思うことを言っていいんだよ』と言っても、10人中7、8人は首を傾げるだけで答えられません。自分と向き合っていないんです。象徴的なのは、彼らが自分の長所も短所もわからないことです。得意なことや好きなことを聞かれても、『さあ、何でしょう』って答える。 ひどいのは、プリントを配って、自分の長所と短所を書いてくださいと言うじゃないですか。そうすると、仲の良い子が書いているのとまったく同じ内容を書いてくる子がいるんです。長所や短所まで友達と同じでいいのかって聞いたら、『たぶん同じだと思います』と答えていました」 子どもたちが「浮く」ことを避けつづけた果てに待っているのは、こうしたことなのだろうか。『ルポ スマホ育児が子どもを壊す』では他にもさまざまな例を紹介しているので、現状を考えるヒントにしてもらいたい。 こう見ていくと、アフターコロナの学校のあり方は、子どもたちにとって最善のものになっているのだろうかという疑問がわく。「仕事改革」「学校改革」という言葉で一括りにするのではなく、子どもの立場に立って一つひとつを見直していく必要があるように思う。 取材・文:石井光太 ’77年、東京都生まれ。ノンフィクション作家。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに取材、執筆活動を行っている。著書に『絶対貧困』『遺体』『「鬼畜」の家』『43回の殺意』『本当の貧困の話をしよう』『格差と分断の社会地図』『ルポ 誰が国語力を殺すのか』などがある。
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