NECや日立はかつて「エヌビディア的存在」だった…世界一を誇った日本の半導体産業を潰した"犯人"
■先見の明があったのに、潰されてしまった しかし、考えてもらいたいが、「半導体がキー産業になる」と最初に気づいたのが日本なのであるから、その目ざとさを甘く見てはならない。先の支援戦闘機開発における日本の突出した技術も超小型レーダーなど結局はエレクトロニクス技術で、ハードではなくそうしたソフトこそが重要なのだと日本は気づいていたのである。しかし、そのことに他の諸国は気づけていなかったのである。 逆に言うと、そこで気づいて以降の他の諸国のスピードの速さがほめられるが、少なくとも気づいた時点ではすでに相当に日本と離されており、次のステップへ移るベースとなる技術を欠いていたはずである。 なので、問題はどうしてここまで離されていたアメリカの半導体産業が日本を凌駕できたのか、そこまで強かった日本の半導体産業がどうして壊滅してしまうこととなったのかということになる。その当時の日本産業のものすごさゆえに、死に物狂いで潰しにかかったアメリカの圧力でしかそれが説明できないというのが私の主張である。 ■アメリカが仕掛けた「通商戦争」 実際、日米の半導体産業をめぐる紛争は「通商摩擦」というより「通商戦争」というべきもので、85年前後と90年前後の2つの時期に集中して起こされている。 日米の半導体協定は86年と91年に締結されているが、半導体世界市場における日本企業の猛追、86年における首位確保へと向かう情勢の下、米国半導体工業会(SIA)はまず85年に米通商法に規定されているスーパー301条に基づく提訴、アメリカ企業によるダンピング提訴を仕掛けてくる。 この提訴は結局のところ、政府間協議で収拾されたものの、スーパー301条というのは本来の通商法301条の拡大解釈をして場合によれば100%の関税をかけるという一方的なもので、何と現在の米中摩擦でも俎上に上げられていないほどの異常なものである。こんなものが脅しに使われた下での「摩擦」=「戦争」であったことが重要である。 また、86年と90年はアメリカ企業テキサス・インスツルメンツと富士通の間の訴訟合戦の年でもあった。1970年代から1980年代前半までアメリカ半導体のトップ企業であったテキサス・インスツルメンツは、当時焦点となっていたDRAMの製造特許の無断使用を主張して1986年1月に日本企業8社とサムソン電子をダラス連邦地裁に提訴する。そこで請求された特許使用料は通常の10~15倍もの高水準のものであった。