「前のクルマについて行って」と言われたけれど…なんと相手はマイバッハだった【タクシードライバー哀愁の日々】
【タクシードライバー哀愁の日々】#19 タクシードライバーにとって無線配車の仕事はありがたい。お客待ちのために駅やホテルで“つけ待ち”していてもなかなか自分の順番が来なかったり、街を流していても手を上げてくれるお客に遭遇しなかったりするのに比べれば、確実に稼ぎになるわけだから当然のことだ。 曙太郎さん死去「最新型ベンツに乗る貴乃花を見て頭に血が上り…」生前に語っていた若貴への強烈ライバル心 無線センターからの配車依頼をゲットしたときのドライバーの気分をほかの業種にたとえるなら、お客がまったくおらず閑散とした飲食店に、出前の電話が入ったときの店主の気分のようなものかもしれない。 バブルが終わりを告げた頃のある夜、無線で向島の料亭に行くよう指示を受けた。何度か配車依頼で行ったことのある老舗の高級料亭だ。バブル絶頂期の頃は無線配車は大忙しで、高級料亭や高級クラブからの依頼がひっきりなしに入ったものだが、その頃はそうした仕事はめっきり減っていた。配車の依頼を受けたのは、近くの繁華街で長い時間、客待ちをしていたときだったから“ラッキー”と喜び勇んで料亭に向かった。 こうした無線配車のお客はほとんどの場合、乗車料金は5000円から1万円前後が見込めるし厄介なお客は少ない。私はリラックスした気分で目的地に向かった。 料亭の玄関にクルマをつけると、お客とおぼしき男性3人が7、8人の芸者さんたちに見送られながら外へ出てきた。 「この芸者さんの数だと、料亭に支払うお金は半端じゃないな」とは思ったが、具体的な金額など想像もつかない。聞いた話だが、料亭に支払うお金とは別に「おひねり、チップ」も必要で、その額が多いほど粋な客ということになるらしい。いずれにせよ、自分とは無縁な世界の話。 ■家1軒買えるほどの高級車 「なんでお客3人にタクシー1台なんだ?」と思っていると、1人が運転手付きのベンツに乗り、残りの2人が私のタクシーに乗り込んできた。クルマをスタートさせるとお客の1人が「前のクルマについて行って」と言う。後を追い首都高速道路に入ると、ベンツは思いっきりスピードを上げた。初めは気づかなかったが、先を行くクルマはベンツはベンツでも最高級車「マイバッハ」だ。タクシーの仕事をしていても、めったに見かけることのないクルマ。当時でも新車なら3000万円以上、車種によってはさらに高額になるクルマだ。家1軒が買える。 「おまえのパワーを見せてやれ」と後続の私を挑発するように猛スピードで走り続ける。「前のクルマについて行って」とは言われているが目的地は聞いていない。私のクルマには当時カーナビも装備されていなかった。見失っては大変と必死にハンドルを握る。追う相手は「マイバッハ」だが、当時私のクルマは「クラウンコンフォート」「クラウン」とは名ばかりで、タクシー専用モデルで自家用高級車の「クラウン」とは性能面ではまったくの別物。パワーも足回りの安定感も、先を行くクルマとは月とスッポンどころではない差がある。 「車のハンディをプロの技術で」と言えばかっこいいが、とにかく必死でハンドルを握り、ペダルを踏み続けた。 「マイバッハ」が首都高速の飯倉出口で降りたときは正直ホッとした。ほどなく六本木の高級クラブの前に着いた瞬間、ちょっと大袈裟だが、私もクルマも“息も絶え絶え”状態であった。その甲斐あってか「お釣りはいいから」とお客は1万円札を差し出してくれた。私は「おまえもよく頑張った」と廃車間近の「クラウンコンフォート」に初めて“愛車”のような感情を抱いたものだった。 (内田正治/タクシードライバー)