没個性の品ぞろえをやめて売り上げ10倍 大手生保から転身した神保町の履物店5代目が広げた間口
明治創業の大和屋履物店は「角の下駄(げた)屋」として、東京・神保町(千代田区)で親しまれてきました。大手生命保険会社から妻の家業に入った5代目の船曵竜平さん(35)は、シューズやスリッパにまで広がって没個性に陥ったラインアップを、祖業の下駄など日本伝統の商品に絞り込みます。それに合わせて内装もリニューアルし、3代目や4代目の力を借りつつ、伝統の履物の間口を広げるイベントも年20回ペースで開催し、売り上げを10倍に伸ばしました。 【図解】世代交代の時が狙い目なリブランディング ポイントや具体例は
大手生保から妻の家業へ
「忘れもしない2019年の12月、みなで集まった忘年会で、わたしは妻の実家が営む大和屋履物店に加わることを宣言しました」 4代目で義母の小倉佳子さん、佳子さんの実妹で型染め作家である充子さん、そして船曵さん夫婦で囲んだ忘年会。なんらかの手を打たなければならない時期にきているが、我々だけではどうしようもない――。ふと漏らした佳子さんの言葉に「ならばわたしが」と答えていたといいます。 船曵さんは明治大学を卒業すると住友生命に就職。入社3年で四国地方のマネジメント職に抜擢されます。その功績が認められ、2019年には本社に戻り、新規プロジェクトに携わりました。まさに順風満帆の船出です。道半ばで下船することに後ろ髪が引かれることはなかったのでしょうか。 「わたしたちの世代にとって転職はそこまでチャレンジングな選択肢ではありません。それに誰かの助けになるならば、こんなにうれしいことはありませんから。旅館の三男坊なので接客業への抵抗もありませんでした」
コンセプトは「文化を継なぐ店」
「創業者は六本木の下駄のお店で丁稚奉公をし、独立したと聞いていますが、いまとなっては生い立ちはおろかその名さえもやぶの中です」 1884(明治17)年に創業した大和屋履物店は、2代目の小倉清一さんがたすきを受けとり、3代目の進・ヤス子夫妻、4代目の佳子さんがもり立ててきました。ヤス子さんが嫁いだときは近隣に70軒を超える履物屋があったそうです。大和屋履物店は「角の下駄屋」と呼ばれ、近隣住民の憩いの場でした。 高度経済成長期に入ると品ぞろえは広がっていきます。当時の看板には「和洋傘、はき物、シューズ、サンダル各種」と掲げており、近隣で働くビジネスマンのためのシューズやオフィス履き用のスリッパも取りそろえました。 ルーツとなる下駄こそ残していたものの、その品ぞろえはいわゆる街の靴屋さんのそれ。次第に没個性化していきます。このままでは遅かれ早かれのれんを下さざるを得なくなるだろうことは誰の目にも明らかでした。 「よそ者」だった船曵さんは、じっくりと時間をかけ、みなの思いをたずねました。そこで上がった声は大要、次のようなものでした。 もう一度下駄屋としてがんばりたい、神保町を知るきっかけになるような店にしたい、日本の伝統文化を守りたい――。 ていねいに家族の声を拾い集め、打ち出したコンセプトが、「文化を継なぐ店」。 本来、つなぐは「繫ぐ」と表記します。ところがメンバーはそろいもそろって「継」の字を浮かべていたといいます。「継承したい、という思いが強かったからだと思います」と船曵さんは振り返りました。