「自分にはなんの価値もない」という考えのやめ方。執着を手放して心もラクに
禅の教えのもっとも大切なことは「執着を捨てる」ことの大切さです。過去の栄光や、自分に対するネガティブな思い込みにしがみついていると、かえって心が不自由になってしまいます。今回は、YouTubeチャンネル「大愚和尚の一問一答」が人気の僧侶・大愚和尚の未来を“幸せ”に導く禅語についてご紹介します。
幸せになりたいのなら、得てきたものをまず捨てる
唐の名僧、趙州禅師と修行僧・厳陽(げんよう)の禅問答の中に出てくるのが、この「放下著(ほうげじゃく)」という言葉です。 放下とは捨て去るという意味。著は、強調するための助詞で、「捨て去ってしまえ」という意味になります。厳陽が「私はなにももっていませんが、どうしたらいいですか?」と問うと、趙州禅師は「捨て去ってしまえ」と言いました。 禅の教えのもっとも大切なこと、それは「執着を捨てる」ということです。裕福な王子として生まれたお釈迦様は、29歳で出家しました。地位も家族もそれまで手にしていたものをすべて捨て、苦行の末に、人々を幸せに導く覚りを開いた方です。 しかし、だれもがお釈迦様のようにすべてを捨て去ることができるわけではありません。それどころか、苦労して手に入れたものを手放すのは人間にとって至難の業です。努力に努力を重ねて得た役職や、やっと手に入れた名誉、過去の成功などにしがみついてしまいがちです。
過去の栄光にすがりついていると、かえって“不自由”に
以前、こんなことがありました。 私は僧侶のほかに、スポーツジムを運営する会社に投資をしていますが、ある引退したプロスポーツ選手からクレームをいただいたことがありました。その方は、「〇〇だが、これから行くから」と電話をしてきました。 ところが電話応対の若いスタッフが〇〇さんを認識できなくて、「〇〇さんですか、どうぞ、どうぞ、いらしてください」というような、いわゆる“VIP対応”ができませんでした。普通の人と同じように会員番号を問われたことで、〇〇さんは大変気分を害されたのです。 引退したプロスポーツ選手をみんなが知っているかというと、そうではありません。同年代ならサインを求めにくるかもしれませんが、若い世代の人たちは、その人が活躍した時代を知らないのですから、ユニフォームを脱いだ時点で「どなたですか?」となります。 社員教育がたりないと言われそうですが、私の関わっているジムは、オリンピック選手もいますが、一般の方とも刺激し合って体を健康にしていくのが目的ですので、どんな会員も平等に大切にするのが方針です。 〇〇さんが立腹したことを、彼の全盛期を知る人はどう思うでしょうか? 「そんなふうに過去にしがみついているなんて…」と、とても残念な気持ちになったりはしないでしょうか。過去の栄光を振りかざしてばかりいると、ファンであっても、1人、2人と離れてしまうものです。 プロスポーツ選手でなくても、過去の栄光にしがみついている先輩方を見るのはとても残念です。 「俺様に敬意を払え」とばかりに、ファミリーレストランで若い店員にクレームをつけている、身なりのいい初老の男性。葬儀場の駐車場で、入り口に近い身障者スペースに、当然とばかりに高級車を駐車するお行儀の悪い元重役たち。みっともないことを平然としている人は1人や2人ではありません。 私たちは過去の栄光をいつまでも大切にして、すがりがちです。でも得たものを捨てられずにいると、それらにとらわれてかえって不自由になってしまいます。