人生にハプニン“グー!”は付き物──エド・はるみと山田ルイ53世が向き合う「その後」の人生
「グー!」で流行語大賞を受賞したエド・はるみ(56)。「ルネッサーーンス」でおなじみの髭男爵の山田ルイ53世(45)。ともに2008年に大ブレークを果たし、その反動か一度は“消えた”などと言われたこともあった。しかし、けっして彼らは消えてなどいない。「人は人、自分は自分」と、“その後”の人生を惑わされずに生きる2人。山田ルイ53世が、エド・はるみに話を聞いた。(構成:Yahoo!ニュース 特集編集部/写真:石橋俊治)
令和を生き抜く3つの価値観
「人間、最終的には拳(こぶし)です」 ──けっして、格闘家の格言ではない。エド・はるみのセリフである。いま彼女は、イスラエルの格闘技「クラヴマガ」の教室に週2で通いながら、月1で本格派のゼロレンジコンバット(零距離戦闘術)を学ぶ。 エド わたしはもちろん、実際に手は出しませんよ。出しませんけど、「いざとなったらやれる」という気迫が、何より大事なんだと悟りまして(笑)。で、わたし最近気づいたんですが、昭和の三種の神器は、テレビ・冷蔵庫・洗濯機。でも令和では、弁が立つ・動きが速い・拳が強い。この3つじゃないかと。わたしもびっくり。 山田 もう家電ですらない(笑)。この間お会いしたときも「人間、最終的には接近戦だ!」っておっしゃってましたもんね。いや、一緒にテレビとか出てるときも、動きはキレキレで、発声も滑舌も良い、素晴らしいなと思ってましたけど、まさか“グー!”がそっちのグー(拳)に変わっていたとは(笑)。
──2人がブレークした2008年は、「ラーメン、つけ麺、僕イケメン」の狩野英孝、「3のつく数字と3の倍数でアホになる」世界のナベアツ(現・桂三度)も躍進した、かなり“濃い”年だった。その中でも、山田が「一段も二段も違う跳ね方をしている」と感じていたのがエドだ。 山田 当時から、エドさんの舞台を現場で見るたび、「こりゃ勝てんな……」と。お茶の間に届くもの以上にパワーというか、鬼気迫るものがあった。 エド ホントですか!? ありがとうございます。ただ山田さん、わたしあのときは44歳です。最後のチャンスでした。 山田 今の僕とほぼ一緒の年齢だ(笑)。“今”スタートだったんですね。 エド 「人間、“危機感”を持とう」と言いますよね? でも“危機感”じゃダメなんですよ。“危機”! 山田 怖い怖い! 今まさに、ここにある危機だという。 エド そう。崖のへりじゃないと。だから、その手前の草が生えているところではまだ余裕があるんですよ。危機感じゃなくて、危機。小石がコロコロって、片足もっていかれるくらいの危機ですよ。 山田 サスペンスドラマの犯人の立ち位置ですね(笑)。 エド そこまで行かないと、人間は捨て身になれないです。わたしの場合は、40歳で役者から転身して吉本の養成所に行くと決めたとき、これが本当に自分の人生最後のチャンスだと覚悟して、初めて捨て身になれました。 山田 ああいう極端な売れ方をして燃え尽きたりはしなかったんですか? 僕たち(髭男爵)くらいの“まあまあ”の感じでも、ちょっとしんどかった。もともと僕は趣味もない、社交にも疎いという人間。「飯を食う」くらいしか頭になかったので、いざ売れると「次はどうしよう……」となって。まさか売れて途方に暮れるなんて思わない(笑)。もっと言うと、若い頃、飯が食えない時期でも芸人を続けていたのは、別に「絶対売れてやる!」といった情熱があったわけではなく、「これやめたらいよいよ他にやることがないなー」というのが理由。今でも似たようなものですが(笑)。薄口のモチベーションの割にはそこそこ遠くまで来られました。 エド わたしはそれこそ17歳で芸能界に入って、そこからグー!まで20数年下積みをしました。それはセミが7年土の中にいて、ようやく出てきたみたいなもので。やっと自分の描いていた仕事ができる! と本当に幸せでした。それで求められるままに一生懸命「グーグー」ってやっていたら、あるとき「いつまでやっているんですか?」と(笑)。まさにセミのように、1週間の命を燃やし尽くしたあとに、また違う課題がやってきたという感じです。 山田 これは本当にタイミングが難しい(笑)。気がついたらはしごが、というね。自業自得ですけど、もっと耳を澄ましておくべきだった。聞こえたはずです。「そろそろ外すよー?」という声が。まあ、僕の場合、自分でも一発屋を名乗ってますけど、人間を観測する地点としてこの肩書き面白いなとも思ってるんで。皆、油断してくれる(笑)。