9年ぶりの優勝は叶わなかった広島。それでもクラブが繋いできた歴史と「継続」は、確かな実力となって表われた【番記者コラム】
明確に直結している城福-スキッベ時代
歴史は常に繋がっている。国、会社、そしてサッカークラブでも同様だ。 2012年から15年まで4年で3度の優勝という黄金期を作った広島も、決して「突然」強くなったわけではない。歴史的な転換点は2000年、森﨑和幸、森﨑浩司、駒野友一という広島ユース卒の若者たちがトップチームに加入してきた頃だ。 【画像】サポーターが創り出す圧巻の光景で選手を後押し!Jリーグコレオグラフィー特集! それまでの広島は優秀な若者をリクルートして育てるのではなく、他チームで出場機会を減らした実績あるベテランを獲得し、再生させてチームを構成するのがメインストリームだった。「育成型クラブ」という哲学を掲げていたが、それは理想。広島ユースで育ってレギュラーを掴んだ選手は、2000年の森﨑和以前はひとりもいなかった。それでもクラブはアカデミーの充実に心を砕き、ユースからトップチームへの昇格を継続させていた事実があるから、2000年以降の「広島ユースの才能開花」が起きた。 特に森﨑兄弟と駒野は、年代別代表でも主力として期待された逸材であり、それまで広島にやってきた若者たちとは明確に質が違っていた。だからこそ、彼らを軸にチームを構成し、当時の織田秀和強化部長(現・熊本GM)も「リアクションではなく自分たちで主導権を握るサッカー」をコンセプトに定めた。 広島の歴史は、ここで大きく変わった。01年のヴァレリー・ニポムニシ監督以降、「主導権を握るサッカー」を旗印としない指揮官は、06年の望月一頼監督以外、就任していない。しかも望月監督は残留争い中の4試合限定で指揮を執り、勝点優先にならざるを得なかった事情もある。 06年のペトロヴィッチ監督就任が広島のサッカーを確立させたのは疑いのない事実だが、前任の小野剛監督の「24時間、プロとして生活をデザインする」という厳しい指導がチームの規律を作り上げた事実なくしてペトロヴィッチ監督の成功はない。12年の森保一監督の下でのJ1初優勝も、ペトロヴィッチ監督が遺したサッカーのベースがあったからである。そして、22年以降の広島の成功も、18~21年まで指揮を執った城福浩監督の功績を抜きに考えられない。 森保監督が常に選手たちに言っていたのは「たとえ裏を取られても、スパイクの靴音を聞かせろ」という粘り強さ。そこに加えて、城福監督が「靴一足分の寄せ」という表現を使って強度の高い守備を求めた。彼が指揮を執った4年間は(リーグ2位だった)18年を除いて成果がなかったように見えるかもしれない。だが「靴1足分の寄せ」をキーワードとした守備意識の向上は、今のミヒャエル・スキッベ監督が標榜するサッカーに直結している。 スキッベ監督のサッカーは超攻撃的だ。「広島の守備は前に出ることだ」と言うほど攻撃偏重。最終ラインは高く設定され、3バックが敵陣でプレーするシーンも多く、両ウイングバックが最終ラインに落ちて5バック化することも少ない。シュート数は2年連続最多で、チャンスクリエイトやゴール期待値など、多くの攻撃スタッツがリーグ1位である。 そのベースは、なんといっても強固な守備だ。前からの守備は他のチームも志向しているが、広島は次元が違う。連動性など関係ない。とにかく、行く。まずは、行く。そこに周囲がついていくわけだが、たとえついてこなくても行くのが特徴だ。 根本にあるのは、広島の守備の特徴である「目の前の相手に勝つ」という考え方。スキッベ監督が求める守備を物凄く簡潔に言えば、この言葉に尽きる。それは最終ラインだけでなく、ボランチ、ウイングバック、1トップ&2シャドーも同様だ。 「守備」において「目の前の相手に勝つ」とは、どういうことか。それはボールを奪うことに他ならない。では、ボール奪取には何が必要か。もちろん、スキルも戦術眼も必要だが、根本的な重要要素はなんといっても「強度」だ。それを感じさせてくれたのは、22年にプロデビューした満田誠の「火の玉プレス」。圧倒的な迫力で相手に噛みつくようにプレッシャーをかける彼の姿は、スキッベ監督のサッカーを象徴した。 満田のプレーに違和感を抱かず、チームとして激しいプレッシャーをかけられるのは、城福監督時代の下地があったからである。もしそれがなかったら、満田の「火の玉プレス」は逆にチームの規律を乱すプレーとして批判されたかもしれない。 城福監督の時代は今ほど「目の前の相手に勝つ」が根本的なテーマとなってはいなかった。数的優位の局面に持ち込むこと、チャレンジ&カバーといった守備戦術の基礎をしっかりと叩き込んでいた。 そのなかでも個々の下地として「靴一足分の寄せ」が叩き込まれていたからこそ「ボールに向かって守備をする」というスキッベ監督の哲学の浸透が早く、「目の前にいる相手に勝て」がチームの常識になりやすかった。「歴史は常に繋がっている」と書いたように、城福時代とスキッベ時代は明確に直結している。