そこには「バラ色の未来」があるはずだった…「憧れのニュータウン」が老人ばかりの斜陽の街になった根本原因
■60~70m2、5階建てでもエレベーターなし 94年に高畑勲監督の『平成狸合戦ぽんぽこ』というアニメ映画が公開されました。この映画は昭和40年代の多摩ニュータウンが舞台で、丘陵を開発しようとする人間と、それに反発する動物たちの姿が描かれています。映画はヒットしましたが、ちょうどこの90年代半ば頃、各地のニュータウンでは街の将来を憂慮する声が上がり始めていました。 新たな子育て世代の流入が止まり、街からは子供の姿が消え、高齢者が目立つようになってきたのです。タウン内に設けられた商店街も閉鎖や縮小が相次いで、かつての活気は失われていきました。 1960年代に開発が進んだ千里ニュータウンでは、70年の大阪万国博覧会以降は目立ったプロジェクトはなくなり、人口のピークは75年となっています。多摩ニュータウンの人口は約23万人まで増えましたが、こちらも数年内に減少に転ずると見られています。 憧れのニュータウンは、どうして寂れてしまったのでしょうか? 大きな理由は、住民の高齢化と住み替えの難しいニュータウンの設計にあります。60年代から70年代にかけて開発されたニュータウンには、昭和一桁世代、二桁前期世代が入居しました。当時35歳前後の家族を持つ会社員でした。 会社の定年が当時55歳とすると、ニュータウンが開発されてすぐ35歳で入居した人は、入居してから20年で定年を迎えることになります。多摩ニュータウンでいえば90年代以降は定年を迎える住民が増え、ニュータウンの高齢化を招いたのです。 かつての日本では漫画『サザエさん』のように、1軒の家に祖父母から子供まで3世代が暮らすことが普通でしたが、ニュータウンはそうしたつくりにはなっていません。多摩ニュータウンでも70年代後半以降は大面積の集合住宅や戸建て住宅が出てきましたが、初期には4、5階建てで1戸あたりの面積は60~70m2 程度、エレベーターもない団地タイプの集合住宅が中心でした。 私自身も子供時代には父が勤める銀行の寮に5人家族で住んでおり、3人の子供で6畳の1部屋を分け合っていました。当時はみなそんなものでした。 これだけ狭いと、子供は大きくなると出て行ったきり戻ってきません。 作家の重松清が98年に『定年ゴジラ』という小説を上梓しています。老朽化したニュータウンを舞台に、自分の居場所を探す定年後の男たちが主人公ですが、そこには老いた両親のもとに独立した子供たちは戻ってこない前提があり、それが隠れたテーマとなっています。 ニュータウンは90年代半ばから30年、ずっと同じ問題を抱えたままなのです。