そこには「バラ色の未来」があるはずだった…「憧れのニュータウン」が老人ばかりの斜陽の街になった根本原因
高度成長期に新興住宅地として人気を集めたニュータウン。全国に約2000カ所存在するともいわれる町々は、住民の高齢化や買い物難民化で深刻な問題を抱えている。サラリーマンの憧れは、なぜ斜陽の街となったのだろうか。 【図表】諏訪・永山地区 年齢階層別人口構成比 ■ニュータウンは日本人に未来を見せてくれた 1950年代から80年代にかけて、高度成長に伴う都市への人口移動に対処するため、東京・大阪をはじめとする大都市のベッドタウンとして多くの大規模住宅開発が計画されました。 国土交通省ではそのうち、 ・昭和30年度以降に着手された事業 ・計画戸数1000戸以上、又は計画人口3000人以上の増加を計画した事業のうち、地区面積16ヘクタール以上であるもの ・郊外での開発事業 という要件を満たすものを「ニュータウン」と定義しています。 要約すると「高度成長期以降に、都市近郊の大規模な住宅開発により新たに生まれた街」ということになるでしょう。同省作成の「全国のニュータウンリスト」には、北海道から沖縄まで全国で2000を超えるニュータウンが記載されています。その中でも代表格と言えるのが、大阪の千里ニュータウンと東京の多摩ニュータウンです。 千里ニュータウンは大阪府豊中市と吹田市にまたがる千里丘陵に、日本で最初に開発された大規模ニュータウンで、1962年から入居が始まっています。 多摩ニュータウンは東京都稲城市から多摩市、八王子市、町田市にかけての多摩丘陵に広がる日本最大規模のニュータウンで、71年に入居が開始されています。 これらのニュータウンが計画された時代、都心部の企業に勤める会社員が急増していました。その多くは地方出身で、彼らにとってニュータウンは都会の中流家庭の象徴であり、憧れの存在でした。 象徴的なのが水洗トイレです。日本のトイレが水洗化されたのは高度成長期以降のことで、総務省の調査によれば、1963年時点の全国の住宅の水洗化率は9.2%と1割以下、10年後の73年でも30%程度でした。東京23区であっても65年の下水道普及率は渋谷区で40~60%、品川区で20~40%となっています。日本の大部分で人々は汲み取り式便所のついた木造の家で暮らしていたのです。日中は畳の和室にちゃぶ台が置かれて食事の場となり、夜はそれを片付けて布団を敷き、家族はみな同じ部屋で寝ていました。 そこに現れたニュータウンの団地は、鉄筋コンクリート造りの高層の建物で、ユニット型のキッチンやお風呂が備わり、トイレは水洗、部屋はダイニングキッチンと寝室に分かれ、子供部屋までありました。 ニュータウンは日本人に未来のライフスタイルを見せてくれたのです。 当然人気も高く、多摩ニュータウンでもオープンから長い間、入居するには10倍にもなる競争率を勝ち抜いて当選しなくてはなりませんでした。 71年に多摩ニュータウンが入居開始した時点ではまだ鉄道が開通しておらず、少しも便利ではなかったのですが、小田急線や京王線が延伸して駅ができるまでの3年間だけで3万人が多摩ニュータウンに移転しています。 その後、79年に多摩ニュータウンで初めて戸建て用の宅地が発売されたときには、競争率なんと3422倍という記録が残っています。