青木宣親 NPB、MLBで通算2730安打 稀代のヒットメーカー成功の裏側を探る
稀代のヒットメーカーが、ついにバットを置いた。 プロ野球、メジャーで通算2730安打を放った青木宣親選手(43)が21年に及ぶ現役生活に別れを告げ、1月1日付でヤクルト球団のGM特別補佐に就任した。 【試合映像】東京六大学野球 早稲田 春秋連覇達成!史上最多48度目の優勝! その安打製造機の基礎を築いた母校・早稲田大学野球部を訪ね、成功の裏側を探った。
青木は常々こう話している。
「大学時代に考え方の基礎を監督さんからすごく学びました。結局21年も現役をできた訳ですから、野球人生に本当に生かされたと思います」 それは青木の高校時代が大きく起因している。宮崎県立日向高は強豪校ではなく2年時からエースとなったが、3年夏は準々決勝で敗れ甲子園には縁がなかった。 エリート球児でなかった青木は、指定校推薦で早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に進学した。いわゆる「一般入学組」であった。 その他大勢の目立たない部員の青木だったが、野村監督はその俊足を見逃していなかった。「お前は足が速いんだから三遊間に転がせばヒットなんだ。それがお前の生きる道だ」と流し打ちを徹底させた。 「でもね、監督が見てないところでは思い切り引っ張ってた。それを見つかると怒られて……。プロに行きたいし、長打ガツーンみたいな感じでもうちょっと目立ってプロの目に留まりたいというのがあったから」 上級生から「青木、学べよ」と言われるほど同じことを繰り返した。 「こうありたい自分」と「そうしなければいけない自分」の間で、揺れ動いた。ただ、自然に受け入れていった、という。 「受け入れて、細かいことや黒子に徹することを覚えた。つなぎ役は本当に大切な存在。それを身をもって経験して、それがのちに生きた。細かいことがほぼほぼできた状態でプロに入って、もっと飛距離出そうとかスケールを大きくしていった。順番がよかったね、オレは」 6人全員がプロ入りする強力打線「1番田中、2番青木、3番鳥谷、4番比嘉、5番武内、6番由田」でチャンスメーカーとして活躍し、早大野球部史上初のリーグ戦4連覇に貢献。 鳥谷目当てで視察に来ていたスカウトから「俊足巧打のセンター」として注目されるようになり、ヤクルトから4位指名を受けて念願のプロ入りを果たした。 2学年下で「ミスター社会人野球」と呼ばれ、こちらも昨年引退した150キロ右腕・佐竹功年(かつとし、41=トヨタ自動車)は、青木の学生時代について「監督によく怒られていて、練習が長くなるっていうイメージ」という。 「ちゃんと捕球しているのに“もっとグラブの芯で捕れ”とか、青木さんだけ言われるんですよ」。そのシーンを思い出すと思わず、吹き出してしまった。 「怒られ役を作ってチームを締める、野村監督はそういうやり方をしていた。一学年に一人はいたね。当たってしまったの、オレ。強豪校ではない公立校出身で、野球まったく知らないから。そういう感じだったのよ」と青木。 佐竹氏は「野村監督はキャッチボールがおぼつかない部員とかにも分け隔てなく指導してくれた。そういう監督でした」と補足してくれたが、そんな野球部の環境が青木をヒットメーカーへと導いたとも言えるだろう。 早稲田大学野球部と言えば、初代監督・飛田穂洲氏が残した「一球入魂」目の前の一球に魂を込めろ、という意味だ。 「野村監督は毎日のように言ってたね。試合は本当にこのボール1個しかない。それに対して魂を入れろ、と。100回やって80回できたとしても、試合でそのワンプレーができないのが一番よくない。だったら一発で決めろ。それをすごく言ってた」そして青木は続けた。 「その教えはプロに入っても、野球人生に本当に生かされたし、その教えで自分の野球の考え方が築かれていった。アメリカでも?もちろん、もちろん」 昨年10月の引退セレモニーには野村監督も駆けつけ、愛弟子の長きに渡る奮闘をねぎらった。 「“こういう風になりたい”とか気持ちがないと技術も上がってこない。気持ちがあるから行動に移せるし、何かを変えていける。後輩たちにはそう伝えたい」という青木は1月からGM特別補佐に就任した。もともと、GM職には興味があったという。 「違った角度から野球を見ることも大切なんじゃないかと。とにかく魅力のあるチームになって欲しい」と意気込んだ。 今オフに契約が切れる高津監督の後任としても有力候補に挙げられており、現場にも待望論がある。GMになるのが先か、監督が先か。「一球入魂」で次ステージも駆け抜ける。 テレ東リアライブ編集部
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