「年収2万円」「40歳を過ぎてもアルバイト」…アカデミー賞を受賞した売れっ子脚本家の足立紳が「それでも諦めなかった理由」
その厳しさに、脚本の道を諦め家庭に入った
――支えてくれる女性との結婚で、下積み生活に変化はありましたか? 全くありません。当時、映画関連での仕事の収入は、年収で2万円というレベルでした。結局、映画監督の道も中途半端に辞めた形となり、脚本家としても全く芽が出ない状況で。なので、この頃は「映画で生きていくのは無理だな」と諦めかけていました。 ――確かに、心が折れてしまうのも無理ないかもしれません。 でも、「何かひとつでも中途半端にせずやり抜こう」という思いも持っていました。それで、「専業主夫として家庭を支えよう」と決めたのです。35歳で子どもが生まれたのも大きなきっかけでした。 ――映画や脚本の仕事を辞め、家庭に入る決意をしたんですね。 状況的にそうするしかなかったという感じもあります。子どもが3歳になる頃までは、妻も「スーパー専業主夫じゃん」と褒めてくれていたので、いい働きはできていたと思います。妻はそんなことを言った覚えはないと言っていますが、そうやって認めてもらえたことが本当に嬉しかったです。 ――でも、専業主夫生活は長くは続かなかった。 そうですね。妻から「週1でいいバイトに出てくれ」と言われたので、37歳で再びバイトを始めました。近所の100円コンビニで働いていたのですが、初日にレジのカウンターに入った時、「この年で、しかもバイトの身分でレジカウンターに入るのだから、俺はカウンターのこっち側の人間だったんだ。もう結論が出てしまったな」と思いました。あのバイト初日の夜、カウンターの中に足を踏み入れた感覚は今も忘れられないです。これは当然、職業がどうこうということではなく、夢を叶えるかどうかということで僕にとって、あのカウンターが境界線のように感じたという意味です。
もう一度、脚本の道へ
――37歳の時に「こっち側の人間だった」とコンビニのレジで感じた足立さんが、52歳のいま「脚本家」として生活しています。そこから何があったのでしょう? コンビニでバイトを始める少し前、ある日突然妻に言われたんですよ。「私は専業主夫と結婚した覚えはない!結果を出せ!」と。 ――結果……つまり映画業界での「結果」ですか。 はい。当時は「何の結果?」と聞くのが怖くてお茶を濁しましたが、もちろん妻が言いたいことは分かってはいました。だから、コンビニで「こっち側の人間だ」と絶望した時も、実はシナリオは書き続けていたんです。 ――奥さんの一言が相当効いたわけですね。 後は、自分が脚本を書く以外、何にもできない人間ということを自覚していたのも大きかったです。僕は普通では考えられないことを平気でやってしまうんですよ。どのバイト先でも「お前はどこに行っても通用しない人間だ」って言われていました。 ――普通では考えられないとは? 例えば、コンビニバイトでは、売り物のスポーツ新聞を開いて平気で読んでしまうし、疲れたらカウンターの中に座ってしまったり。ラーメン屋のバイトでは、ラーメンを運ぶ時に熱かったら平気で手を離してしまうんですよ。何度も「ガッシャーン」という事故を繰り返していました(笑)。 ――確かに、普通では考えられない(笑)。 普通の世界でも、そして映画の世界でもうまくいかない日々でしたが、先に業界で活躍するようになっていった仲間たちに対する悔しさは心の底にずっとありました。その頃は、もう99.9%映画の世界で仕事はできないと思っていましたが、残りの0.1%にやっぱり、「1本でもいいから世に出したい」という気持ちがあったんだと思います。それがあったから、どんなに芽が出なくても書き続けられたんだと思います。