「けがの功名」でツアー初優勝も抱えた腰痛で…わらをもすがる思いで試した治療が「まさか」の奏功 1985年「中日クラウンズ」
【海老原清治のNO GOLF NO LIFE】 2位の中嶋常幸と2打差の単独首位で迎えた1985年「中日クラウンズ」最終日最終18番パー4ホール。17番ホールで危うくボギーにしそうなパーパットをねじ込んだことでスコア的にも精神的にも余裕がありました。 僕がボギーで、中嶋がバーディーを取ったとしてもプレーオフがあります。バーディーやパーセーブ必至のプレッシャーがなかったことでドライバーを思い切り振り切れたのです。フェアウエー左サイドの斜面方向を狙った低弾道ショットは、イメージどおりの地点に落下し、下り傾斜を伝ってコロコロと転がり、フェアウエーをキャッチ。2打目をピッチングウエッジで打てたのです。 ピン位置は左手前。砲台グリーンに着弾したボールは、フォローの風でグリーンが硬くなっていたこともあって右奥にかろうじて止まってくれました。バーディーパットの距離は13メートル。今思えば、現役時代って目(視力)もパットのフィーリングも良かったからでしょう。難なくカップに寄せられたのでした。わずか5センチのウイニングパットをタップインし、逆転でツアー初優勝を挙げたのです。 開幕戦で左手を痛め、連続予選落ちを繰り返し、そのシーズン初めて予選通過した試合で勝てるとは、まさに「けがの功名」であり、「まさか」の出来事でした。 しかし、ツアー2勝目を飾ることなく、レギュラーツアー時代を終えざるを得なかったのは残念でした。原因は初優勝時からすでにツアープロの宿命ともいえる腰痛を抱え始めていたからです。ツアーの移動日である月曜日には、いつも千葉県我孫子市から山梨県甲府市の「ゴッドハンド」といわれるマッサージ師にケアしてもらってから大会へ向かうようになっていたのです。 週初めに腰痛が一時的に収まっても週末には痛み始めてしまいます。練習量は激減し、腰をかばいながらのプレーでは好成績を挙げられるはずもありません。ツアープロ人生の危機を感じ始めた。そんな時、また「まさか」と遭遇し、ゴルフを続けられるようになったのでした。わらをもすがる思いで試した治療が奏功したのです。詳しくは来週お話しましょう。 (構成・フリーライター伝昌夫) ■海老原清治(えびはら・せいじ) 1949年4月2日生まれ、千葉県出身。中学卒業後に我孫子ゴルフ倶楽部に入り、20歳で日本プロゴルフ協会プロテストに合格。85年の中日クラウンズでツアー初優勝。2000年から欧州シニアツアーに本格参戦し、02年に3勝を挙げて賞金王に輝く。20年、日本プロゴルフ殿堂入り。身長174センチ、体重74キロ、血液型A型。我孫子ゴルフ倶楽部所属。