道長・不比等・頼通などを輩出した藤原一族のはじまりは何だったのか?
■鎌足が得た大織冠が藤原氏の地位を向上 藤原氏は、明治維新まで1000年にわたって朝廷の中心にあり、また政治を領導してきた一族である。世界を見回しても例のない傑出した一族である。 そして、その一族は7世紀中頃、一人の男からはじまった。その人物が始祖の鎌足(かまたり)である。鎌足は、天智8年(669)10月16日に56歳で亡くなるが、その前日に天智天皇は皇太弟である大海人皇子を鎌足のもとに遣わしている。その時のことは『日本書紀』天智8年10月庚申(15日)条に、「天皇、東宮大皇弟を藤原内大臣の家に遣して、大織冠と大臣の位とを授く。仍りて姓を賜ひて、藤原氏とす。此より以後、通して藤原内大臣と曰ふ」とみえている。天智は弟大海人を鎌足のもとに遣わして「大織冠」(天智3年2月に制定された冠位26階の最高位)を授け、中臣氏から改めて藤原氏を称することを命じたのである。 鎌足が生誕したのは、曽孫である藤原仲麻呂(恵美押勝)が天平宝字4年(760)頃に編述した藤原氏の家伝『藤氏家伝』上巻「鎌足伝」には、推古34年(626)に藤原(奈良県高市郡明日香村小原)の邸宅であったとある。父は美気祜(御食子・弥気)、母は大伴咋の娘の智仙娘で、胎内にあったときは泣き声が体外に聞こえ、また妊娠期間も12か月であったという。 鎌足の人生は、中大兄皇子(天智)との出会いで大きく左右されたが、それが藤原氏発展の原点ともなった。それは法興寺(飛鳥寺)での蹴鞠の際に中大兄の皮鞋(かわぐつ)が脱げ落ちたのを拾い差しだしたことであった。 これをきっかけにして親密な関係となり、ともに蘇我本宗家の打倒を計ることになる。鎌足は蘇我入鹿の従兄弟である倉山田石川麻呂を仲間に引き入れ、ついに皇極4年(645)6月に蝦夷・入鹿父子を倒して(乙巳の変)、大化改新を実現する。この功績によって鎌足は内臣に任じられた。 その後、鎌足は、皇太子として政治をとっていた中大兄を助けて改新政治を推進した。天智7年正月に中大兄は即位し、鎌足に「礼儀」の編纂と「律令」の修訂を命じるなど2人は君臣の関係であったが、一方では同じ車に相乗りするなど尊敬しあう友人であったと「鎌足伝」は 伝えている。 この鎌足の死にあたって、天智が藤原の姓を賜与したことで藤原氏がはじまったことは重視されなければならないが、大織冠の冠位を贈られたこともまた注視する必要がある。大宝令が施行されると、そこに規定される蔭位制が子孫の栄達に大きく影響した。大織冠は官位制の最高位正一位に適用され、嫡孫は21歳の出身年齢になると正六位上に叙位されるという特典があり、鎌足の孫や曽孫は他氏族の者より高位に蔭叙(おんじょ)されて藤原氏発展の基礎となるのである。 監修・文/木本好信 歴史人2024年8月号『藤原氏1300年の真実』より
歴史人編集部