来秋スタートの女子プロサッカー「WEリーグ」初代チェアは元ウグイス嬢…異色の就任経緯と成功条件とは?
全国高校サッカー選手権決勝でウグイス嬢を務め、黎明期の日本女子代表でもプレー。大学卒業後は長年にわたって金融界で手腕を振るい、結婚を機に移ったアメリカをこれからも拠点にしていく。来秋にスタートする女子プロサッカーリーグ、WEリーグの初代トップは異色の経歴をもっていた。 一般社団法人日本女子プロサッカーリーグの初代代表理事に就任した岡島喜久子氏(62)が13日、オンライン形式で行われた就任会見に出席。生活拠点を構えるメリーランド州ボルチモアから大役を担う意気込みとともに、呼称が「チェア」に決まった代表理事に就くまでの経緯を語った。 「最初は裏方として何かお手伝いできればと考えていて、まさか私がWEリーグのチェアになるとは思ってもいませんでした。新型コロナウイルスが蔓延して、ニューノーマルとしてオンライン会議が一般的になったことで、アメリカに住んでいる私でも、ということで声をかけられたと思っています」 なでしこジャパンが世界一に輝いたときの指揮官、佐々木則夫氏を室長とする女子新リーグ設立準備室の活動を岡島チェアはパートナー企業候補との交渉などでアメリカから支援してきた。一転してトップに推挙され、今月3日の社員総会でチェア就任が決議された青天の霹靂ぶりを苦笑いとともに振り返ったが、サッカー界とのかかわりをさかのぼっていくと実は1970年代に行き着く。 東京都で生まれ育った岡島チェアは、中学2年生だった1972年から男子サッカー部に所属。規則によって試合に出られない状況が続くと、同年に誕生した日本初の女子クラブチーム、FCジンナンでプレーを続け、高校時代には国体や全国高校サッカー選手権など男子の大会も熱心に現地観戦した。
そのなかには日本サッカー協会(JFA)の田嶋幸三会長がキャプテンを務めた浦和南が高校日本一に輝いた、1975年度の第54回大会も含まれている。関西圏で最後に開催された大会で、浦和南の名将・松本暁司監督(故人)から“ある仕事”を託されたエピソードをオンライン会見で明かしている。 「松本監督に頼まれてスコアをつけていまして、そのことは田嶋会長にもお伝えしました」 早稲田大学商学部に進んでからは、当時は渋谷区の岸記念体育会館内にあったJFAへアルバイトで通い続けた。東京都高等学校体育連盟の仕事も手伝っていた縁で、首都圏に会場が移った全国高校サッカー選手権決勝でウグイス嬢として、得点者などの名前を旧国立競技場に響かせてもいる。 女子サッカーを盛り上げていく機運も生まれ始めたなかで、岡島チェアはJFA傘下の組織として1979年に設立された日本女子サッカー連盟の理事に、大学卒業後の1984年には第2代事務局長に就任。現役選手としてもFCジンナンの後輩で、現在はなでしこジャパンを率いている高倉麻子監督と、1980年代に入って産声をあげた日本女子代表で共演したこともある。 「大学卒業後は金融機関ひと筋で勤務してきました。新卒で外資系のケミカルバンク、いま現在のJPモルガン・チェース銀行に就職したのも、土曜日も出勤しなければいけない企業がほとんどだった当時の状況で、サッカーの練習や試合がある土曜日が休みだったことが実は一番大きな理由でした」 礎が築かれつつあったサッカー界とのかかわりは、結婚を機にアメリカへ移った1991年を境に次第に少なくなっていく。女子代表が出場した1996年のアトランタ五輪こそスカウティング業務をサポートしたものの、その後は疎遠気味になっていた状況は2018年10月を境に急変する。 都内のホテルで開催された、日本が銅メダルを獲得したメキシコ五輪50周年記念パーティー。代表チームのOB・OG会の招待を受けて出席した岡島チェアは、Jクラブは傘下に女子チームも持つべきだ、という持論を展開していた元日本代表の金田喜稔氏と偶然にも同じテーブルになった。