大勢の部下を死なせて「おとり」作戦を成功させたのに、謎の「反転」ですべてを無にした中将が戦後に語った「真実」
伊藤國雄一等整備兵
このとき、輸送機に便乗して戦死した将兵のなかに、二〇一空司令・山本栄大佐の従兵だった伊藤國雄一等整備兵(一整)がいた。 これまで戦史で省みられたことは全くなく、戦地では最下級の少年兵(当時の海軍では二等兵は基礎訓練のみ。一等兵になって初めて実戦部隊に出る)だが、山本大佐は伊藤一整をことのほかかわいがっていたらしく、その死を悼む溢れんばかりの気持ちを日記に記している。これを読むと、「無名戦士」など一人もいないことが実感できる。以下、山本大佐日記より引用。 〈一整伊藤國雄君を偲ぶ 君は純真温順そのものだった。去る七月十七日司令としてダバオに着任以来、司令従兵として公私共まことに気持ちよく誠心誠意やってくれた。 約二ヵ月、自分のような短気者でさえ一度だって叱ったことがなかった。どの士官だって伊藤を叱った人は居るまい。飛行長に負けまいと思ってドミノの手入れを頼んだ時なんか終日磨いてくれた。ずいぶん大工の手伝いもさせた。家庭の話を聞いたこともあった。洗濯もよくやってくれた。身体も流してくれた。我が子のように可愛かった。 十月十日飛行隊の進出とともに自分も一、二日の予定でマバラカットに進出した。これが最後の別れとは露知らなかった。十九日自分は怪我をした。伊藤に世話してほしいと思った。十月二十六日、伊藤一整は自分(注:山本)の荷物を全部持って輸送機に便乗、西澤飛曹長等と一緒にセブを出発した。ミンドロ島プエルトガレラ付近で不幸G戦二機と遭遇、恨みを呑んで熱火に包まれ撃墜されたのだった。 伊藤! 残念だったね! 全航程の過半は来ていたのだ。(敷島隊戦果確認の直掩隊小隊長西澤飛曹長も同乗していて戦死した)〉
航空部隊の特攻は続く
栗田艦隊が逃げ、フィリピン決戦(比島沖海戦)に日本海軍が大敗を喫した後も、「特攻」は、押し寄せる敵艦船に対し、戦果を挙げ得るほとんど唯一の攻撃手段として続けられた。しまいにはフィリピンにいた搭乗員だけでは足りず、第一航空艦隊の要請で内地の航空部隊に大々的な特攻志願者募集が行われている。(「特攻隊員」に選ばれた者と選ばれなかった者を分けた残酷な基準) フィリピンが敵手に落ちれば、次は沖縄が狙われるのは目に見えている。そうはさせじと航空部隊は必死の戦いを繰り広げていた。昭和19年に戦没した海軍の飛行機搭乗員は、各戦域をあわせて9858名。昭和18年の3581名の2.75倍に上っていた。(続く)
神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)