大勢の部下を死なせて「おとり」作戦を成功させたのに、謎の「反転」ですべてを無にした中将が戦後に語った「真実」
輸送機でマバラカットに帰る
10月25日のセブ基地に話を戻す。西澤飛曹長が中島少佐に敷島隊の戦果を報告した時点では、中島は栗田艦隊がレイテ湾の敵を前に「逃げた」ことを知らない。この日、セブ基地から発進させた特攻機の戦果報告はまだ入ってこないが、中島とすれば、引き続きセブから特攻隊を送り出したい。そこで中島は、西澤以下3名の敷島隊直掩隊員に、飛行機をここで二〇一空に引き渡し、輸送機でマバラカットに帰るよう命じた。 軍令部参謀の源田実中佐が戦地の事情を無視して推し進めた「空地分離」と呼ばれる制度で、この頃、飛行機隊は、たとえ他部隊であっても着陸した基地の指揮官の命令に従うことになっている。戦闘機乗りが戦闘機を取り上げられ、輸送機で帰らされるとはおもしろくなかったに違いないが、西澤も従わざるを得なかった。 夜10時過ぎになって、中島が夜食を食べに作戦室から階下の食堂に下りてみると、従兵が夜食はないという。聞けば、ふだん見慣れない飛曹長がやってきて、「飛行長の夜食を出せ」と言って、中島の夜食を持っていってしまったという。そんなことができる搭乗員は海軍に一人しかいない。 「あの西澤のやつだな、俺の夜食を分捕ったのは」 中島は苦笑しながら、恐縮する従兵に、 「心配せんでいい」 と声をかけて作戦室に戻った。かつてラバウルの台南海軍航空隊で苦楽をともにした中島と西澤とは、そんな間柄だった。中島は特攻を積極的に推進したことで多く元部下や遺族の恨みを買い、メディアの取材に応じることはほとんどなかったが、亡くなる前年の平成7年秋、私の電話インタビューに対し、 「もうみんな忘れた。特攻のことも、空戦のことも。記憶にあるのは西澤のことだけです」 と答えている。
西澤飛曹長、戦死
西澤は、翌26日、列機の本田上飛曹、馬場飛長とともに、輸送機に便乗し、マバラカットに向かった。ところがその輸送機は、ミンドロ島カラパン上空で敵戦闘機グラマンF6F 2機の襲撃を受け、撃墜される。空中では無敵を誇った歴戦の零戦搭乗員も、輸送機の便乗者ではなすすべがなかった。輸送機搭乗員、便乗者の全員が戦死した。 西澤の戦功はのちに全軍に布告された(機密聯合艦隊告示〈布〉第一七二号・昭和二十年八月十五日)。布告文によると、西澤は通算して〈協同戦果四百二十九機撃墜四十九機撃破、うち単独三十六機撃墜二機撃破の稀に見る赫々たる武勲を挙げ〉たという。日本最高の「撃墜王」と言われる西澤の撃墜機数については、さまざまな戦記でいろんなことが言われているが、ここで公に認められているのは「単独で撃墜36機、撃破2機。協同戦果(部隊戦果)撃墜429機、49機撃破」である。ただし当時の米軍記録と見比べると、これらの数字、特に部隊戦果は明らかに過大だと思われる。