大勢の部下を死なせて「おとり」作戦を成功させたのに、謎の「反転」ですべてを無にした中将が戦後に語った「真実」
栗田艦隊の反転
栗田艦隊の反転は「謎の反転」とされ、戦後もさまざまな論議や憶測を呼んでいる。 当時、レイテ湾には戦艦4隻を主力とする米艦隊がいて、もし栗田中将が予定どおり突入すれば、敵機の空襲に加えてこれら戦艦群との砲撃戦となり、壊滅したかもしれない。「だから反転は正しかった」とする、栗田中将の判断を擁護する意見もあれば、「要は臆病風に吹かれた」とか、「反転ではない、逃げたのだ」と断ずる厳しい意見もある。どの捉え方にも一理あるだろう。 だが、一つだけ確かなのは、この反転によって、特攻隊をはじめとする基地航空部隊の多大な努力、小澤艦隊の空母「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」の喪失など、栗田艦隊のレイテ湾突入のために積み重ねてきた膨大な犠牲が水泡に帰したということである。あとに残ったのは、作戦が失敗に終わり、日本海軍が今後、米海軍に艦隊決戦を挑むだけの戦力を失ったという惨めな事実だけだった。 栗田艦隊のレイテ湾突入取りやめは、基地の航空隊や司令部に、大きな失望感を抱かせた。マバラカット基地で敷島隊の出撃を見送った六五三空飛行長・進藤三郎少佐(1911-2000)は、 「体じゅうの力が抜けたような気がした。『全滅を覚悟の最後の決戦』と聞かされ、そのために大勢の部下を死なせたのに、敵を目前にしながらこの期におよんで逃げ出すとは、何が『決戦』かと、心底腹が立った」 と私に語っているし、一航艦副官門司親徳主計大尉(1917-2008)も、 「やり場のない、いらいらした気にさせられた。基地航空隊ならずとも、作戦に参加した将兵はみんなそう感じたんじゃないでしょうか」 と回想している。
米ジャーナリスト、栗田にインタビュー
ダグラス・マッカーサー大将のレイテ島上陸のスクープ写真を撮った米「ライフ」誌の写真家、カール・マイダンスは、戦後、昭和21年夏に「フォーチュン」誌の依頼で、栗田健男元中将にインタビューをしている。 マイダンスは回想録のなかで、次のように述べている。(『マッカーサーの日本 カール・マイダンス写真集1945-1951』カール・マイダンス、シェリー・スミス・マイダンス共著 講談社刊) 〈レイテ海戦の山場で、彼がなぜ退却したのか、それを取材するためである。この海戦こそ戦争全体の明暗を分け、日本帝国海軍の終焉を決定的にしたのである。 このインタビューに、私は気乗りがしなかった。人の傷口に塩をすりこむように思えたからだ。提督は小さな家の畳に病身を横たえていた。それを見て私の気分は一層滅入った。かつての邸宅は空襲で焼失し、その裏に建てられた粗末な仮住宅だった。耳の痛みがひどいようで、ぬれタオルを頭の下に当てていた。 私の質問に従って通訳がよい方の耳に向かって叫ぶ。 「あなたは、レイテ湾の上陸地点にいたキンケード提督のちっぽけな艦隊を叩きつぶすことができたのに、なぜむざむざ退却したのか、お話いただけますか?」 栗田提督はしばらく思い出にふけり、そして静かに語り始めた。 「私はキンケード提督のハルゼー提督宛ての緊急電を傍受していました。私は、我が艦隊が間違いなく二つの艦隊にはさみ撃ちにあうことを確信したのです」 私は言った。 「ハルゼーが日本側のおとり作戦にはまり、彼の機動部隊を北にまわしてしまったのを、あなたはご存知なかったのですか? キンケードは少ない護衛空母と空っぽの補給艦で、栗田艦隊に立ち向かえたと思いますか?」(中略) 「私は、まったく知りませんでした」、栗田提督は言った。「我々は制空権を失い、自分の目と耳しか判断のよりどころがなかったのです」(中略) 「知らなかったのですか?」私はしつこく聞いた。「あなたが退却した時、キンケード艦隊は士気・装備とも弱体にあえぎ、ハルゼー艦隊は全速で航行しても二時間の遠きにいたことを、ご存知なかったのですか?」(中略) 「知りませんでした」提督は言い、少し頭を上げ、すぐにまたもとにもどした。「あなたから聞くまで、いまのいままで知りませんでした。退却が、いまとなっては悔やまれます」〉