「相手が嫌がらなければセクハラではない」は倫理学的に正しいか
「ビジネス倫理学」が専門である慶応義塾大学商学部准教授の杉本俊介氏は、大学の講義でも学生から意見がよく出るテーマとして、企業内部でもよく見られる「ハラスメント」が挙げられると話す。「相手が嫌がっていなければハラスメントではない」と考える人は多いが、それは倫理学においても一面的な見方なのだという。 【関連画像】杉本俊介(すぎもと・しゅんすけ)氏。1982年東京生まれ。早稲田大学第一文学部総合人文学科哲学専修、名古屋大学大学院情報科学研究科博士前期課程修了(修士号〈情報科学〉取得)を経て、京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了(博士号〈文学〉取得)。2015年大阪経済大学経営学部講師、19年准教授を経て、21年4月より現職。(写真=的野 弘路) 前回(参照:大阪商人は「利益の追求は徳」と考えた 令和の時代に脚光)は、日本ならではのビジネス倫理学の研究について話を伺いました。日本企業の経営理念を調べると、「貢献」という言葉が頻出するという話が印象的でした。 また、江戸時代の私塾である「懐徳堂」では、利益の追求を「徳」だと考えたというのは驚きでした。西洋哲学では利益は徳と見なされないし、儒学ではむしろ「悪徳」だと思われていた、ということでしたね。 杉本俊介・慶応義塾大学商学部准教授(以下、杉本氏):はい。こうした日本ならではのビジネス倫理学の研究は、取り組んでいて新しい発見があります。 こうした研究はもっと一般の人にも知られてほしいですね。ビジネスパーソンが考えておくべき問題やテーマとしては、ほかに何がありますか。 杉本氏:いろいろありますが、「ハラスメント」がそうですね。セクシュアルハラスメント(セクハラ)やパワーハラスメント(パワハラ)は、企業の内部で起きる重要な問題なので、当然ビジネス倫理学の研究対象になります。これらが「やってはいけないこと」というのは大前提なのですが、一方でメッセージの文末に句点をつける「マルハラ」みたいに、なんでもかんでもハラスメントと呼ぶのは少し窮屈なんじゃないか、という意見が学生からも出てきます。 若者が街頭インタビューで「文末にマルがあると相手が怒っているような気がする」と答えるニュース映像がありましたね。 杉本氏:では具体的に、何がハラスメントで、何がそうではないのか。考え方として私が強調するのは、「相手が嫌だと思うことはしない」というのが基本的な理解だとしても、じゃあ「相手が嫌だと思わなければいいのか」、ということです。 そうなると、結局ハラスメントって相手次第という結論になってしまいそうです。同じ行為でも、嫌がる人もいれば嫌がらない人もいますから。 杉本氏:そうなんです。ハラスメントに関する議論がそこでとどまってしまうと、「これは嫌だ」と言われたら即ハラスメントになりかねず、逆に「相手が嫌がってないからいいんだ」ということもありえますよね。 それではまずいから、ハラスメントの定義や類型に関して、盛んに議論されてきました。そして、定義よりもさらに一歩踏み込んで、「なぜハラスメントは不正なのか」と考えるのが倫理学的な思考だといえます。 ●「ハラスメント」を倫理学でどう扱うか ぜひ、倫理学でどうハラスメントを扱うのか、教えてください。 杉本氏:倫理学では大きく功利主義、義務論、徳倫理学という3つの考え方があります。それを当てはめて考えてみましょう。ハラスメントは相手が嫌だと思うかどうかによる、というのは功利主義的な発想です。功利主義では、できるだけ多くの人ができるだけ幸福になるような行為を正しい行為と考えます。 英国の哲学者ジェレミー・ベンサムが打ち出した「最大多数の最大幸福」というやつですね。 杉本氏:そうです。功利主義のポイントは、行為の帰結、つまり結果に着目するところにあります。だから功利主義的に考えれば、相手が嫌がる行為はハラスメントになるし、そうではない行為はハラスメントにならないわけです。