「相手が嫌がらなければセクハラではない」は倫理学的に正しいか
杉本氏:こんなふうに、「なぜハラスメントはいけないのか」という理由についての議論があった上で、個別の行為の善し悪しを判断するのが筋であって、「これはセクハラ・パワハラに該当するか」などという個別の行為の話だけで尽きてしまうのは、非常にまずいと思います ●新しいハラスメントについて判断する枠組み 自分の行為を問い直すことにもつながりそうですね。 杉本氏:そうですね。例えば新型コロナウイルス禍の中で、勤務時間中ずっとカメラオンを指示されたり、オンライン飲み会を強要されたりというリモートハラスメント(リモハラ)ということが問題になりました。 なぜリモハラは良くないのか。たとえ画面越しの相手が不快に見えなくても、人としてやってはいけない行為をしていないか。いくら会社のためであろうと、社員を単に手段としてだけ扱っていないか。プライバシーを侵害していないか。相手を支配したいという不純な動機で飲み会を開いていないか。そういったことが考えられます。 セクハラ・パワハラの典型的な事例に当てはまらない場合や、まだ「◯◯ハラスメント」と名付けられていない行為でも、なぜその行為が不正なのかを考えることは、その行為をすべきかどうかを判断する助けになるはずです。 なんでもかんでもハラスメントと呼ぶのはどうか、という意見がある一方で、新しい問題行為が現れたときに、倫理学の考え方を用いれば、それが不正なのかどうかをいろんな角度から議論できるわけですね。 杉本氏:はい。「セクシュアルハラスメント」という言葉が考案されたのは1970年代のことでした。それよりずっと以前から働く女性たちの間にはそのような被害が存在していましたが、自分たちでもそれが声を上げるべき不正だと認識できていなかったのです。名前がなかった現象に名前がつけられ、多くの女性が自分の受けたひどい経験を適切に解釈し、理解することができるようになりました。 会社の中、そして社会の中には、私たちは見過ごしているどころか、気づけずにいる不正がまだまだあると思います。それを放置しないためにも、行為の根拠までさかのぼって不正かどうかを考える倫理学的な思考が必要なのです。
斎藤 哲也