「相手が嫌がらなければセクハラではない」は倫理学的に正しいか
功利主義は、ハラスメントの標準的な理解に近いわけですね。 杉本氏:ただ、相手が嫌だと思っていなくても、人としてやってはいけない行為があるように思いませんか? そこで2番目の義務論の登場です。義務論では、相手が傷つくかどうかではなく、人としてやってはいけない行為だからハラスメントは不正だと考えます。 義務論は18世紀プロイセンの倫理学者イマヌエル・カントが唱えた考え方です。カントは、いかなる場合でも、相手を手段としてだけ扱ってはいけない、同時に相手を目的として扱いなさいと述べています。相手を目的として扱うとは、要するに相手の人格を尊重することです。 例えばこんな思考実験をしてみましょう。奴隷制時代の米国を想像してください。奴隷として働かされた人たちがその環境に慣れて、誰もが嫌だと思っていないと仮定します。こんなことは実際はないわけですが、思考実験なのでそう仮定します。嫌がっていなくても、人を奴隷として働かせることはやってはいけない。なぜなら、奴隷制は人を単に手段としてのみ扱う制度だからです。 パワハラも部下の人格を尊重せず、もっぱら手段としてだけ扱っている。そういう行為は、人としてやってはいけないから不正なのだ、と義務論では考えるわけですね。 杉本氏:はい。義務論の特徴は、正しいタイプの行為をしたかどうかに着目する点にあります。そして3番目の徳倫理学は、有徳な人であればハラスメントのような行為はしない、というふうに「徳のある人ならばどう行動するか」を基準に、正しいか不正かを判断します。こちらは動機や人柄に着目した考え方ですね。 ●「差別」「プライバシー」も重要 倫理学の考え方を用いると、相手が嫌がるかどうかだけで考えるのは一面的だということがわかります。 杉本氏:その通りです。そして3つのうち、特に義務論が重要ですね。相手がたとえ嫌だと思っていなくても、こういうタイプの行為であればそれ自体が不正だ、ということを評価できる枠組みになっていますから。ただ、ここで大切なのは、3つの考え方を機械的に当てはめることではなくて、「なぜハラスメントをしてはいけないのか」という理由を深く考えることにあります。だから、出てくる理由もこの3つに限らないんですね。 例えば、セクハラをしてはいけない理由として「差別になるから」という考え方も非常に重要です。多くの場合、セクハラは男性から女性に向けられるものです。このような場合、女性という集団全体を貶(おとし)めている側面があります。そのため、たとえ個人が同意していたとしても、それは良くないことだと説明できます。なぜなら、それは個人の苦しみではなく、あなたが属している集団全体への苦しみにつながるからです。 あるいは、ハラスメントはプライバシーの侵害にもなり得ます。プライバシーというと、個人情報の保護みたいな話をイメージしがちですけど、特にパワハラなどでは、プライバシーの侵害と結びつきやすいのです。 労働時間外や職場の外まで拘束したり、勝手に部下の情報を開示したりというケースですね。