聖武天皇が仕掛けた「宗教戦争」と神仏習合
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宗教、宗派の対立が、世界秩序の崩壊を助長している。そして、貧困と不公平、蓄積された恨みと憎しみが、混乱に拍車をかけている。それが今日の世界だろう。 古代の日本でも、宗教戦争が勃発していた。だれもが知る6世紀後半の物部守屋と蘇我馬子の、仏教導入をめぐる死闘だ。 物部氏は「蕃神(あたしくにのかみ、仏のこと)を祀れば、国神(くにつかみ)の怒りを買う」と主張し、仏像を難波の堀江(大阪市中央区)に捨てた。すると、蘇我馬子は反撃に出た。朝廷の主だった者を率いて、物部守屋を滅ぼしたのだ。 けれどもこの戦い、純粋な宗教戦争だったかというと、じつに心許ない。その証拠に、物部氏自身が、当時仏寺を建立していたし、蘇我氏は物部守屋を滅ぼしたあと、神道を弾圧していない。対立の裏に、皇位継承問題や外交問題、改革を巡る利害の対立が隠されていた。要は、宗教戦争を隠れ蓑にした権力闘争である。 ならば日本には、宗教戦争はなかったのだろうか。 「静かで長い戦い」は、起きていたと思う。それが、中臣神道の成立から神仏習合に至る間にくり広げられた、摩訶不思議な暗闘劇である。 7世紀後半から8世紀にかけて、律令制度の導入によって社会は大きく変貌した。中でも、藤原氏から別れた中臣氏が神祇官になると、神祇祭祀(神道)は激変した。藤原氏と中臣氏は神道を都合の良い形に改変していく。『日本書紀』が編纂され神話が確立し、伊勢神宮が整ったのだ。 極論すれば、この時生まれた「神道」は、伝統を無視した張りぼてだった。だから平安時代に中臣氏とともに朝廷で祭祀を司る官職を務めてきた斎部広成(いんべのひろなり)は『古語拾遺』(こごしゅうい)を記し、中臣神道に対する不満を爆発させている。「これを言っておかなければ、死んでも死にきれない」「中臣氏が神道を私物化している」と訴えた。 地方の神官に至っては「仏にすがりたい」と言い出している。これは異常事態だが、その理由ははっきりとしている。律令制度の矛盾が噴出し、農民たちが困窮すると、税を徴収する神官たちにしわ寄せが及んだからだ。 収穫したイネの一部は神に捧げるために集められた。これが税で、律令以前から運用されてきたシステムだが、ここにいたり破綻したのだ。律令制度が原始共産制だったからだ。たとえば、「農地の私有は許さず、死後返納させる」から労働意欲を削ぎ、次第に荒地が増えていった。逃亡する民もあとをたたなかった。そしてこれが、神仏習合のひとつのきっかけになっていくのである。 弥生時代から、既に日本列島には、「純粋な民間の信仰」と、「統治のための宗教」の2つの流れがあったと思う。縄文時代から続く素朴な多神教的信仰と、社会をまとめ上げるための、権力者の方便だ。じつを言うと8世紀以降に勃発した「静かな宗教戦争」は、この2つの流れの間で交わされていたように思えてならない。 弥生時代、稲作によって余剰が生まれ人口爆発が起きると、土地と水を求めて戦争が始まった。強い首長が求められ、首長は鏡や矛などの青銅器を依代(よりしろ、神霊が出現する時の媒体となるもの)にし、神を祀った。統治のための宗教の萌芽だ。そして、ヤマト建国によって、巨大な前方後円墳が青銅器に取って代わった。首長や王は墳丘上で神々や先祖の霊を祀り、王や首長の正統性を演出してみせた。 ここで注意しておきたいのは、ヤマトの祭祀様式を、地方の首長が自主的に受け入れていたことで、染みいるように、民にも浸透していったことだ。弥生時代の戦乱状態が、一気に沈静化した奇跡は、「ヤマトのマツリゴト」が、地方の信仰と融和した結果だろう。ヤマトの信仰が多神教的発想に根ざしていたから、広く受け入れられたのだ。
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関裕二