小中高と8校へ通って培った「未知」を恐れぬ強い心 双日・藤本昌義会長
日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年12月23日号より。 【写真】学生時代の藤本昌義会長はこちら * * * 1985年秋、日商岩井(現・双日)の米ミシガン州デトロイト郊外の事務所に着任した。辞令は11月1日付だったが、ひと月以上前に赴任する。就職で総合商社を選んだ「外国に住みたい」との夢が実現し、胸が躍っていた。ドル高是正に日米英仏独の先進5カ国が足並みをそろえた「プラザ合意」の直後、円高ドル安が急に進み、世界の市場は揺れていた。 デトロイトは米国中西部のカナダ寄り、五大湖のエリー湖とヒューロン湖に挟まれた自動車産業の街だ。仕事も、米企業が求める日本製の精巧な自動車部品を、トラック向けやトラクター向けに納める仲介役だった。 入社5年目の海外駐在は、かなり早い。それまで4年半、東京の輸送機械部でデトロイトから届く米企業から受け取った部品の図面をもとに、日本の部品メーカーへ発注し、できたら米国へ輸出した。今度はデトロイトで注文を取り、図面をもらって日本へ送ったうえ、届いた部品が注文通りの性能を満たしているかを確認する側へ替わる。 立場が、注文の受け手が渡し手へ替わっただけで、楽に思われるかもしれないが、そうではない。事務所で電話を取れば、早口の英語であれこれ言われ、ほとんど意味が聞き取れない。米国人がナマで話す英語は、日本の教室とは違う。聞き直しても、完全にはつかみ切れない。ただ、知らない土地へいって、知らない人たちのなかで過ごしても、「未知」を恐れぬ強い心が身についていた。 ■学校で輪に入るにはリーダー格と親しみ対抗ではなく対等で 1958年1月に福岡市で生まれ、電力会社で経理の仕事をしていた父のしばしばの本支店間の異動で転校を重ね、小学校を3校、中学校も3校、高校は2校と、東京の大学へ進むまでに計8校で「未知」の世界と遭遇。初めての土地や顔ぶれに溶け込むことは、慣れていた。藤本昌義さんのビジネスパーソンとしての『源流』だ。 学校で輪に入るには、そこで人気があるリーダー格と親しくなり、「対抗ではなく対等」に付き合うことが大事だった。デトロイトでは、発注社が遠くにあっても、電話で「これから、うかがいます」と言って、かけつけて直に話すことにした。直であれば、英語力が不足していても、再確認やメモにするのは難しくない。納品がくれば、クレーム対応にも足を運ぶ。