小中高と8校へ通って培った「未知」を恐れぬ強い心 双日・藤本昌義会長
その繰り返しで、発注社のキーパーソンと懇意になれば、取引は円滑に進む。小中高で過ごした8校のうち、六つ目の大分市立城東中学校は、地域の宅地開発が進んだ時期で、2年生の2学期に転入すると学年に12学級もあった。教室が足りず、プレハブの校舎でしのいでいた。同期生が500人を超すなか、リーダー格をみきわめて親しくなるにはしばらくかかったが、人をみる目も鍛えられていく。 デトロイトの取引先で、キーパーソンは、すぐに見分けることができた。さらに英会話の聞き取り力も磨かれて、半年後には電話のやり取りだけで十分になる。約6年駐在し、社長になったときに「あの時期をこなせたのは、高校時代までの体験があったからだ」と振り返った。 高校まで父母と2歳下の弟の4人家族。父が勤めていた電力会社は2年から4年の間に支店へ出て、本店に戻ってまた支店への繰り返し。辞令が6月に出て7月1日に赴任するから、通学は1学期で終わり、夏休みの間に転校する。だから、福岡市立草ケ江小学校は1年生の1学期だけ。2学期から佐賀市立勧興小学校へ移り、6年生の1学期までと、在校期間は最長だ。 その後、福岡市立宮竹小学校から同那珂中学校、同高宮中学校へ転じ、大分市の城東中学校へ進む。学校の上側に電力会社の社宅があり、父が働いているコンビナートがよくみえた。夜になると、施設に電飾がつき、きれいだったのを覚えている。 ■ラグビーの強豪校でやりたかったが母の言葉で諦める 次の県立大分舞鶴高校はラグビー部が全国大会の強豪校で、やりたかったが、母に「危ないスポーツはダメ」と言われていたので、諦める。結局、1学期だけで福岡県立修猷館高校へ転校したから、ラグビー部へ入っていても全国大会には出られなかった。でも、東京大学文科I類へ進んだとき、2年生まで駒場キャンパスでラグビー同好会へ入り、満喫する。 2度目の海外勤務は、96年4月からのポーランドで、自動車販売会社の副社長。次に本社の経営企画部へ戻り、バブル崩壊後の不良債権処理に伴う資金繰りの担当部長となって、2002年12月に発表されたニチメンとの合併の統合計画づくりも手がける。その後、3度目の海外でベネズエラへ赴任した。