追悼。元参謀が語るノムラ野球の真実「実はID野球という言葉が嫌いで監督のいらないチームが理想だった」
プロ野球界の巨星逝くーー。元南海、ヤクルト、阪神、楽天の監督で名将と呼ばれた野村克也氏が11日、急逝した。84歳だった。突然の訃報に、野村さんの自宅を訪れる弔問客があとを絶たなかった。その中には、ノムさんの側近中の側近で、右腕、参謀、黒子などと言われ、半世紀、陰から支え続けてきた松井優典さん(69)の姿があった。 「安らかな顔をされていました。克則(息子で楽天コーチ)も気丈に応対していました。先月、ヤクルトのOB会で会ったばかりで元気にされていたので……信じられません」 自宅に帰った野村さんと対面した松井さんは視線を落とした。 「野村さんに逢うときは、いつも気持ちの中でネクタイを締め緊張していました」 この日もその姿勢は変わらなかったという。 松井さんは野村兼任監督のもと南海で内野手としてプレー、その後、ヤクルトにトレードされた。引退後はヤクルトでマネージャーを14年間務めたが、何かの縁で、1990年から野村さんがヤクルト監督に就任。その後、2軍監督、1軍総合、チーフコーチを務めて、3度の日本一を味わい、野村さんが1998年から阪神のユニホームを着ると一緒にヘッドコーチとして入閣、野村さんが楽天監督時代にも2軍監督として支えた。松井さんは、いつも野村さんの隣にいる、最も信頼していた参謀だった。 「初めて会ったのは昭和44年1月31日。監督になる1年前。明日からキャンプインするという日に旅館の大広間で行われた全体ミーティングでした。飯田監督ら大物はとっくにいるのに最後に遅れてきた野村さんが床の間にどんと座ってようやく始まったんです。存在感とオーラ。『この人は監督になる人だ』と思いました」 後々、松井さんは「大学出の杉浦忠が監督をやると思っていた。俺に、そんな気はなかったんだ」と聞かされたが、翌1970年から野村さんの選手兼任監督が南海でスタートすることになる。 野村兼任監督時代に松井さんはオープン戦への帯同を許された。地方での試合後、夜の10時半頃に一人で大浴場に浸かっていると、「寒い!寒い!」と言いながら肩をすぼめた野村兼任監督が入ってきた。 「えっ?と思う人間らしさに触れた。オーラと親しみやすさのギャップ。それが野村さんの魅力でした」