追悼。元参謀が語るノムラ野球の真実「実はID野球という言葉が嫌いで監督のいらないチームが理想だった」
松井さんには、阪神での2001年シーズンのこんな記憶がある。 「その年ヤクルトが優勝したんです。でも若松監督と戦っている気がしなかった。野村さんが育てた選手ひとりひとりと戦っていると感じたんです。全部自分で考えてやっている印象の野球、そう野村野球と戦っている気がしました」 当時のヤクルトの主力である宮本慎也氏にシュートをレフト線に狙い打ちされたことがあったという。 翌日、松井さんが、宮本氏に「よくシュートを打ったなあ」と声をかけると「あそこはシュート1本しかない場面ですよ」と返された。 「自分で考えてやっているんだ、とよくわかりました。野村さんが、教えた野球のカタチです」 野村さんは阪神に確かな遺産を残した。 監督就任した高知・安芸キャンプの初日に全コーチ、選手に「ノムラの考え」というファイルを配った。野村ミーティングの中身のエッセンスをまとめた虎の巻である。投手、打者、それぞれの側からの心理、配球、読み、データの使い方などだけでなく、バッティング、ピッチングの基本的な技術論まで書かれ、各章にはカッコで囲い込むような形で「阪神の場合は、こうすべき」というものまで付け加えられていた。また「女性とはなんぞや?」という人生論まで書かれていた。今でも、そのコピーは広く出回っていると聞く。 現阪神監督の矢野に「リードとは何か」を教えたのも野村さんだった。 「当時、矢野は外角中心の無難な教科書的なリードをしていました。『野球は勝負やぞ。教科書通りにいくから生きる配球があるやろ。相手がそうくると思うから、そこで使う球種があるやろ』とぼやくんです。楽天時代は、嶋にも同じことを言っていました」 特に内角球を使う目的と根拠を説いたという。 野村さんは、2年目のオールスター期間中に阪神のすべての決定権を握っていた久万オーナーと会談を持った。 「監督を代えればチームが強くなると考えていませんか。中心は編成部です」 「4番とエースは育てられません。生え抜きの4番は掛布雅之以来、出ていないじゃないですか」 歯に衣着せぬ意見に久万オーナーは考え方を変え、その後、徐々にフロント変革などを決断する。 野村さんは「体力、気力、知力」の3つを選手に求めた。 「体力、気力を問題とするならプロとして失格だ、というのが野村さんの考えだったんです。ヤクルトでは、知力をつけることに心血を注いだのですが、楽天時代には、その体力、気力が完成していないことに気づいたんです。だから4年目のチームスローガンは『氣』という言葉にしたのです」 野村野球の薫陶を受けた矢野が阪神の監督をし、楽天は、ID野球を知る石井一久がGMとなり、ヤクルトOBの三木が監督、息子の克則が作戦コーチである。松井さんは「阪神、楽天には、野村遺伝子、遺産が残っていると思います」と言う。