追悼。元参謀が語るノムラ野球の真実「実はID野球という言葉が嫌いで監督のいらないチームが理想だった」
4年のシーズンが過ぎた1993年のオフ。宮崎西都の秋季キャンプ地から監督会議に出席する野村さんを宮崎空港に送っていく途中、松井さんは、「2軍監督をやってみろ」と命じられた。 就任1年目のオフにもバッテリーコーチとして入閣する話を野村さんが進めたが、選手として実績がなくマネージャーだった松井さんがユニホームを着ることを球団が許可していなかった。まさに異例の抜擢である。さらに野村さん異例の指令をした。 「野村監督のID野球の考え方の基本をファームでも浸透させるのだと、思っていたのですが、そんなことは一言も言わない。命じられたのは『若い選手の人間形成をせよ』でした」 実は「ID野球」のキャッチフレーズを野村監督は嫌いだった。 「何かいいキャッチフレーズはないか」と相談された松井さんが「データを重要視するという意味でインポート、データ、IDでどうですか」と提案したが、乗り気ではなく、時間がなかったため仕方なく野村監督が採用したという。 「野村さんは、IDが野村野球と思われたくなかったんです。人間的に社会に出ても通用する人格、知識を持ち、そして、考える野球を知っていて技術と体力を持った選手が9人揃えば監督はいらない。『究極の自主性野球。それが理想の野球だ』と言っていました」 野村さんは「監督のいらないチーム」を理想像としていたという。 だから野村ミーティングのほとんどは野球の話ではなく人生論だった。野村さんは、哲学書を読みソクラテスの言葉を語り、心理学を学び、マズローの「欲求5段階説」を教えた。松井さんは、楽天時代にも2軍監督を任されたが、選手の人間形成に役立てば、と球場の行き帰りに本を読み、ミーティングに使える言葉を書きだした。 野村さんは、「哲学とは考えること。さらに考えることについて考えること」と教え、野球に重ねた。 「それを生かした典型が古田敦也です。ベンチの横でぼやかれ続け、野村さんの教えを取り込み、自分で考える主体性を覚えた。それをバッティングに生かして首位打者です。彼のバッティングの思い切りの良さは、そこから来ているんです」 ヤクルト監督の後、野村さんは1999年から阪神の監督を3年務めたが、3年連続最下位に終わった。2006年からは楽天の監督を4年務めたが、1年目は、また最下位。4年目にやっとBクラスを脱して2位となりクライマックスシリーズ進出を果たしたが、ファイナルステージで日ハムに敗れた。 「野村さんは『阪神は大失敗だった。やらなきゃよかった』と口癖のように言ったが、私は、この阪神、楽天時代こそ、野村野球の象徴だと思っているんです。その後、星野仙一さんが受け継ぎ、阪神では2年後、楽天では、3年後に優勝しました。人間形成をして種を撒いたのが野村さんなんです」