追悼。元参謀が語るノムラ野球の真実「実はID野球という言葉が嫌いで監督のいらないチームが理想だった」
その後、松井さんはヤクルトにトレードに出されたが、それも野村監督の決断だった。近鉄の西本幸雄監督からも声がかかっていたそうだが、野村さんは、在京のセ・リーグに送り出した。まさか15年後のことを予期していたわけでもなかろう。だが、松井は、1990年にヤクルトのマネージャーとして野村監督と再会する。 「付き合いが深まったのはそこから」。 車での送り迎えは松井さんがした。四六時中、野村さんの隣にいた。野村ミーティングでは、野村さんがホワイトボードに書き出していく言葉を消していくのが松井さんの役目だった。 「日本の野球を変えた人でした」 そこでID野球の神髄に触れていくことになる。 「南海の監督時代から細かい野球をするという印象があったのですが、ヤクルトでは、また違う野球に感じた。9年間の評論家時代に相当な勉強をされたのでしょう」 野村さんは選手に「ボールカウントは何種類ある?」と問う。 「『0-0から数えて12通りあるやん。そんなのわかっていること』で済まされていたものを野村さんは、明確に可視化していったんです。まず、12通りのカウントの性質を投手側、打者側から見て『有利』『不利』『5分』の3つに分けた。そこでどう心理が動くかをハッキリと理論化、文書化したんです」 それがID野球だった。 「コロンブスの卵と一緒です。卵を立ててみろ!と言われ、どうしていいかわからない。でも、ガシャっと割れば立つ。野村さんはそういう人。着眼点が違った」 「野村さんは負けん気も強かった」 長嶋茂雄氏、王貞治氏をライバル視。「長嶋、王がひまわりなら俺はひっそりと咲く月見草」と名言を残したが、特に日本シリーズでの戦いに、その負けん気の強さが発揮された。 野村さんは「挑発」「増長」「敬遠」という弱者の兵法をマスコミを使って駆使した。その言葉通り「挑発」は、相手に意識させる挑発、「増長」は褒め殺し、「敬遠」は勝負を避けるという兵法である。1995年のオリックスとの日本シリーズでは、「イチローは内角に弱い」と挑発して、打率.263、1本塁打に抑え込んで勝った。 松井さんが忘れられないのは、1992年、1993年の西武との日本シリーズである。森監督vs野村監督の知将同士の対決となったが、1992年は、ヤクルトが3勝4敗で敗れ、リベンジに燃える翌1993年のシリーズで野村さんは「西武みたいな戦力があれば誰が監督やっても勝てるわ」と森監督を挑発した。 「神宮でのシリーズ直前の監督会議で、森さんが突然、『あんたええ加減にしなさいよ』と怒ったんです」 松井さんは野村さんがどう反応するか、見守っていたが、なんと、両手を広げる、ひょうきんなポーズを取って「ごめんちゃい」と、ふざけて答え、監督会議を笑いに包んだのである。 「2人は昔からのライバルであり親友。わかりあっているからこそできたんでしょうね」 そのシリーズは4勝3敗で野村ヤクルトが日本一になった。